JP – @ –A– 001 –2014年版(ver.4) 基礎の学び Aグループ 神との関係 (1) 「神とは」

『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。(マタイの福音書22:37,38
たとえば誰かを紹介され「その方は立派な人、愛するのに相応しい人ですよ」と言われたからといって知りもしない人を深く愛することはできません。

(ヨハネ17:3その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。
「神を知ること」は神を愛する為だけではありません。それは永遠の命(救い)を得ることは神を知ることにかかっているからです。ですから、神を知ることこそ、もっとも大切なことの一つなのです。
神を知るとは、単に頭の知識だけの問題ではありません。最も大切なことは神自身を体験することです。
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A)間違った神との関係とは何か (神を信じるとは宗教ではない)
多くの人は「神」=「宗教」だと考えます。しかしそうではありません。自分の両親の存在を信じる事は当然のことですが宗教ではありません。同様に、私たちに命を与えた方、すなわち神と呼ばれる方が存在するのなら、それを信じる事は宗教ではなく、事実を受け入れる事であり、その方と関係を持つ事です。
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「キリストを信じること」=「宗教」ではありません。なぜなら一般的な宗教という意味と神と関係を持つ事の間には大きな隔たりがあります。宗教と呼ばれている行為は、ある意味で「自分の力で神に近づくこと」あるいは「自分の方法で自分を正しいとする方法」です。ある人を喜ばせるには、どうすれば良いでしょうか?その人に何が好きか尋ねるのが一番です。自分勝手にあの人はこれが好きだと思い込まれて、欲しくもないプレゼントを誰かから贈り続けられたら迷惑ですよね。
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宗教と呼ばれるものの多くの過ちはこれです。こうすれば神様が喜ぶと思い込んですることです。そのことが、単なる自己満足ならよいのですが、たとえばイスラム教徒の過激派は、自爆テロをして、ユダヤ人やクリスチャンをたくさん殺せば神様に喜んでもらえると思い込んでいます。
彼らは純真に神を愛していたとしても、やり方がまったく間違っています。神とのコミュニケーションが無いからです。そこまで極端ではなかったとしても、私たちが神と関係を持たず、神とコミュニケーションを持つことができなかったら、間違いを犯してしてしまいます。
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また、神と関係を持たない時に起こる過ちとは、心の内側に問題や葛藤を秘めていたり、怒りを抑えることができないという問題を抱えていながら、何かをすればそれを覆い隠すことができるという考え方です。
それは宗教的な考え方です。宗教の定義にはいくつかありますが、この一連の学びの中で「宗教」という言葉が出てきたときにはそれは否定的な意味であることを知ってください。なぜなら、私たちは宗教をやっているのではなく神と関係を持っているからです。
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また、「宗教の定義」を別の言い方をするなら、それは自分の方法や自分の力で自分を正しいものとする、あるいは自分の恥を覆う方法です。

多くの人が神を知ろうとして行っている行動は宗教の行動です。その中には良いものもあるでしょうが、それは人間の行動であってほとんどは神に基づいたものではありません。
宗教とは人の伝承を信じてその上に信仰を建てあげる行為といえます。そのような間違いを犯さないようにするために神は私たちに聖書を与えました。それを私たちの信仰の土台とするべきなのです。
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キリスト教であっても神が言われていること以外の事を自分で付けたそうとするなら、それは神との関係を築くことではなく宗教になってしまいます。たとえば、モルモン教は聖書以外の書物である「モルモン経」を聖書と同じかそれ以上に重要であると考えて真理からそれてしまいました。カトリックの中心的な教理はマリアがイエスを産んだのだから、マリアはイエスと同じくらい重要(神)であると考えていることです。
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B) どうして人は神を知ることが出来ないか?
もともと人は神を知り神と親しい交流を持つように作られています。しかし、さまざまな原因によってそれが困難になっています。この「グループ(A)神との関係」の7つのグループの学びを通じて神と関係を妨げるさまざまな要素を見て行きたいと思います。                           H
今回「神に対する間違ったイメージ」を取り上げたいと思います。間違ったイメージは一日にして生まれるものではありません。下のリストは代表的な間違った考え方です。
I
C) 神に対する人々の間違った考え
(1)神は存在しない 進化論などの間違った教えの浸透によって日本ではポピュラーな考えです。
しかし、その問題の根底は「絶対的な存在を排除すること」であり、それによって「自分が罪を持った存在であることを否定したい」という考えがあります。
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(2)神は愛に満ちており人を罰することはしない。 神はあまりにも良い方で、誰にも害を与えたり叱ったり、人を地獄に送ったりしないと考える人がいます。(1)のように「自分の罪を隠したい」人や、親からしつけを受けずに育った子供は、悪い事をしても悪い報いは起こらないという考えにいたる場合があります。
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(3)厳しい警察官のような方。   非常に強い要求をし、間違を犯すなら厳しく罰する。 この様に考える人々は、恐れの中に生き、形式だけ従うような宗教的な人間になってしまいます。
厳しい父、要求の多い両親に育てられた場合、父のイメージがそのまま、神のイメージとなる事が多いです。なぜなら、父(母)は地上で神を代表するものとして作られたからです。
L
(4) 神様は権威を乱用する方。この様に考える人々は、神は人を苦しめて喜んでいると思っています。
「神がいるのならどうして戦争があるのだ?」と疑問に思う人がいます。しかし実際に戦争を起こしているのは神ではなく、人の心にある悪です。神は人に自由意志を与えました。つまり、そういう勘違いをしている人は神が寛大に私たちの意志を尊重され自由を与えている事を嘆いているのです。
厳しい父、権威乱用する教師などを持ったトラウマからこのような反応を見せる場合があります。
M
(5) 神様は非常に遠いところにおられる方。 神様は忙しく、人に注意を払っておられない。」と考える人々は、神を理解出来ず、又神も自分を理解出来ないと思っている。子供に関心を払わない親を持った場合、このような悪いイメージを持ってしまう場合があります。
N
D) 神様はどのようなお方か
(1)神はイエスの様な方。 神はご自身の性質を表す為にイエスを地上に送られました。彼を見る時に神が表され、イエスを見る時、神を見ることが出来るのです。(ヨハネ14:7/使徒10:38)
神は遠く離れて私達を眺めているわけではありません。イエスが人として生活されたのは、人としての苦しみ、悲しみ、病気、見捨てられることを経験されたという事です。ですから神は私たちの弱さをご存知なのです。
O
(2)神は完全なる父である。 (ヨハネ10:25/マタイ6:9)私達は神を自分の父親として見ることができる。愛する父親の御性質をもっておられる。 (ロ−マ8:16)
P
(3)神は愛なる方 (1ヨハネ4:7・8・16/ロ−マ8:32)
    神は私達にとって最高のものを願い求めておられる。愛があるなら恐れは退く。恐れは神のイメ−ジを曲げてしまう。私達は聖霊によって神の正しい姿を見ることができる。
Q
(4)キリストは花婿、教会は花嫁 (エペソ 5:32) (マタイ25:1−12)
神と人との関係はひとつの言葉やたとえでは言い表せないものです。神は「父と子」だけではなく「花婿と花嫁」という言葉によって神と教会の関係を表すことを選ばれました。恋人同士ほどの親密な関係なのです。
R
(5)神は聖なる方 (黙示録4:8)神はこの世(腐敗した悪い世)から別れておられる方。
神は決して邪悪なことをすることが出来ない。これは私達に平安を与えます。
S
 (6)神は義なる方 神は全てのことを正しく行われる。それゆえ私達は安心することができる。
イエス・キリスト=義なる方、完全なる真理をもって裁く方。(使徒10:34) 神は偏ったことをなさらない。)
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 (7)神は決して変わらない方 時代は変わっても神は決して変わらない。(ヘブル13:8) イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。