JP – @ – B – 001 – 1/2  2014年版(ver.4) 基礎の学び Bグループ 人との関係 (1) はじめに・他の人との関係

人は一人で生きていく存在ではありません。他者との関わりの中で生きていくように神は造られました。それは家庭や社会の中において、また、信仰生活においてもそうなのです。
A
神が人を創造されるときに「われわれに似るように人を造ろう」といわれました。神は父なる神、子なる神(キリスト)、聖霊の三つでひとつですが、通常ご自身を複数形で表わされたりはしません。でも人を創造されるときだけ特別に、「われわれ」という複数で表現されました。(創世記1:26)それは神は互いに愛し合い交わりを持たれる神であることを示されるためでした。それゆえ人も互いに関係を持つべきであり、孤立していてはいけません。
B
今の時代、多くの人は「人との関係」に傷つき疲れています。でも心配は要りません全ての人は、そういった中からキリストを信じて救われ、そして今でも造り変えられている過程にあるのです。
C
イエスキリストを信じた人たちは神の家族です。神が真の父なのですから、私たちは老いも若きも神の子供です。すなわち父なる神にあって私たちは「兄弟」であり「姉妹」なのです。
D
もともと、「教会」の意味は「(神によって)召しだされた者達」という意味があります。すなわち、建物や儀式や教理の事ではなく人の集まりのことなのです。ですから教会の集会は単なる宗教的な儀式や義務を果たしに来るところではなく、神と関わると共に神の家族である教会のメンバーと交わるところです。
E
神の家族の関係は、自分が楽しむだけのサークルやクラブのようなものではありません。また、この世と隔絶した独善的、排他的集団でもありません。神が私たちを集められたのは、神の手として、足として、この世によい影響を与えるために、また、サタンや悪霊たちに対抗する神の国の大使館としての役割があるのです。
F
(エペソ3:9-11) また、万物を創造された神の中に世々隠されていた奥義を実行に移す務めが何であるかを明らかにするためにほかなりません。これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、私たちの主キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画に沿ったことです。
G
時々私が思うことは「神は本当に大胆だ」ということです。なぜなら、神の偉大な奥義と計画を、不完全な人間の集まりである教会にゆだね、教会を通じて実行されることを選ばれたからです。
H
神の計画を知るなら、サタンの計画も明白です。彼はいつも神の計画を台無しにしようとしています。すなわち、あらゆる人間関係に分断と混乱を与えて、一致させないようにしているのです。
I
教会という場所は日本人にとっては異文化ですので、なじむためにある程度時間を要するのは普通のことです。また、心を開いて自分のことを話したりするようなオープンな関係を持つことはこの世ではあまり見られないものなので、最初は多少、居心地が悪く感じるかもしれませんが、それは、ある程度普通のことです。教会では何事も強制されるようなことはありませんので、自分が心を許せる範囲内で少しずつ慣れていったらよいでしょう。
J
そういった事柄とは別に、他の人に対して過敏な恐れを持ったり、自分の反応が普通ではないと感じるようなことがあるなら、それは何か隠された問題があることが原因であることが多いです。中には、それまでの日常生活では人間関係に大きな問題が無かったのに、教会に来るようになってから問題を抱えるようになる人も意外といます。
K
それもそのはずです。人が救われる前はサタンの支配下としてサタンの王国の国民として名前が登録されていましたが、救われた後、神の民として登録されたからです。つまりこの世にとってあなたは他国人となったのです。サタンは何とか自分の元にあなたを連れ戻そうとしているのです。
L
もうひとつの良く見られる救われてから、問題が表れてくる場合がある理由は、神があなたの心の深い部分に癒しをもたらすための心の手術に着手したからです。
M
人は人生を通じて多くの経験をつんでいきます。良きにつけ悪しきにつけ、人の人生の方向性を定めて人を動かす原動力となる大きな要素は人生の経験です。そしてそういった経験は良いことばかりではありません。人生で最初に出会う権威者である両親との関係が悪かった人は、人生の中で出会うその他の権威者(自分の上司、教師、政治組織、牧師、警察)を信頼することが出来なかったり、反抗的であったりすることがしばしば見られます。
N
(ヨハネ11:43-44) そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」
O
これはキリストが死んだラザロをよみがえらせる場面です。ラザロのよみがえりは私たちの魂がキリストを信じて救われる事の象徴的です。ラザロは死んで3日たち体も腐っていましたが、キリストは神の力と権威で彼を一瞬に蘇らせました。同様に私たちも、死んだような人生を歩んでいても、キリストを信じることにより一瞬にして救われることができるのです。
P
しかし、自動的にすべてが、新しくなるわけではありません。ラザロは確かに蘇りましたが、彼の体は包帯が巻かれており、彼はこの状態では日常生活ができません。イエスは彼がそのままの状態であることを望んでおりません。でも、キリスト自身が包帯を解いたわけではありません。イエスは周りにいた人たちに解くように指示しました。
Q
これは私たちの人生にもいえることです。イエスを主と信じ救われても、それですべての傷が癒され、過去ののろいや束縛から自動的に解放されるわけではありません。それらはひとつづつ解かれなければなりません。特に霊的な束縛が強く、人間関係のストレスが多い日本ではなおさらです。もちろん癒しは神が与えるものですが、ラザロの解放に周りの人が用いられたように、人との関係が癒しをもたらす道具となるのです。
R
ところが、癒しの道具といっても、時にはあまりかっこいい役割ではありません。ぶつかり合うことによって問題の所在を知らせるセンサーとしての道具だからです。レントゲンやCTスキャンのように、人間関係のストレスは問題を抱えた心の部位を特定する道具となります。
たとえば、多くの結婚生活で起こるかなり多くの問題を引き起こしたり物事を複雑にしてしまう原因は、目の前の伴侶というよりは、過去から引きずっている癒されていない心の傷なのです。
S
そのような「過去」というものは、表面化しなければ良いというものではありません。表に出なくても、その人の人生に確実に束縛し、蝕んでいくのです。
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ですから、これは大切な点です。人(特に教会のメンバー)との人間関係に問題があるときに、(確かにその相手の人に問題があったり、相手の人が弱さを抱えていることも多いでしょうが)関係を絶ったり、引きこもることによって問題にふたをしただけでは何の解決にもなりません。
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とはいっても、「問題を表面化させた」だけで終わっていては、問題は解決されず、あなたの心が癒されることも難しいでしょう。 その部分を神の前にもって行き、癒しを受け取る必要があるのです。
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その癒しは、もちろん神様との関係だけで完結させれるはずですが、実際にはうまくいかないことも多いです。
なぜなら、聖書の教えを実行してもうまくいかないケースのほとんどは、教えが間違っているというよりも、それを状況に応じて柔軟に適応できないことにあります。けれども本人はその判断が難しいのです。ですからコーチを持つことが望ましいです。教会ではスタッフやコーチングを受けた者たちが、あなたが神の教えを適応する助けをするでしょう。
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その癒しの過程をスムーズに実現するために教会の中に必要なのは弱さを受け入れあう雰囲気が必要です。愛と一致の雰囲気があるなら、そこに神の霊が働きます。なぜなら、それこそ神の御性質だからです。それによって、教会という人が集まる場は、人が癒されるための神の道具となるのです。
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(注意) だからといって「弱さを受け入れあう」「本音を出すのが大切だ」と称して人の悪口、批判を言ってよいわけではありません。時々教会の中で見られる間違いは社会では許されないような失礼な態度を平気でとる人がいることです。
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この後(@-B-4)の「間違ったコミュニケーション」でも学ぶことですが、誰かに不満があるなら牧師やコーチに話してください。兄弟姉妹への批判、不満を他の教会メンバーに語ることはコミュニティーを破壊させることだからです。