JP – @ – B – 003 –  2014年版(ver.4) 基礎の学び Bグループ 人との関係 (3) 価値観・偽り

(ヤコブ4:1何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。4:2 あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。
A
人と関係を持つことを妨げる原因として、ねたみや争いがあります。そしてその原因は私たちのうちにある世の価値観、欲望、低い自己像です。
この世の価値観というものは意識しなくても回りに影響され自然に入ってきます。テレビや雑誌、インターネットを通じて入って来るものの影響で「思い」が汚染されていくのです。
それはマインド・コントロールに近いものです。なぜなら、自分が影響を受けてしまっていることすら気がついていないからです。
B
この世はお金中心に回っていますので、あらゆるメディア、雑誌、テレビ、娯楽は、購読者や視聴者の数を増やそうとがんばっています。つまり「人々は何を求めているか」を調査し、その欲望を満たそうとしています。人の心には罪があるゆえ、大衆受けするものを目指すときに、悪い方向に傾いてしまうのです。
現代の生活の中で、テレビを見ないで生活できる人は少ないでしょうが、(コマーシャルを含めて)そこには常に危険が潜んでいることを意識しているべきです。
 C
ルカ9:46さて、弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。

弟子達の間にも「優劣」に関する争いがあったというのは驚くべきことです。
この世は良くも悪くも競争社会です。また、それぞれ能力に違いはありますから競争して順列が出来てしまうことは自然なことです。そして努力した人が賞を勝ち取れることも聖書的なことですから努力をして成功を目指すことも必要です。
D
ただ、問題なのは、その結果で人の値打ちを判断したり、高慢になったり、他の人をさげすむことです。

学校生活では「容姿のよい人、頭がいい人、スポーツができる人」がもてはやされ、それらのすべてにおいて劣っているなら、コンプレックスを持ってしまうことが多いのです。
日本ではかなり多くの人が、「自分は何かがたりない」「もっとがんばらねばならない」「自分は歓迎されていない。」と感じているようです。そういった考えは、就学時から自然に形成されます。
E
たとえ、何か劣ることがあったり、いじめにあたりしても健全な家庭環境で育ったひとは「自己像が守られる」傾向があります。しかし、今日けっして少なくない人たちは、「両親の無関心」「虐待」「親が依存症」「 」「 」などといった環境で育っており、心がまもられるどころか悪い状態に追いやられているのです。
F
また、「神との関係の学び」で取り上げましたが「両親、特に父親との関係」が悪かったなら、自己象がゆがめられてしまい、「誰かにこびたり」「他の人の好意を素直に受け取れなかったり」「誰かをコントロールしたりされたりする」要になってしまいます。
G
しかし、自分が無条件で愛されいてる経験をしている人は、自己像が高く外見や実績、所有物で自分の値打ちを測らないし、他人を見積もることもあまりありません。
H
ですから、まず、私たちが知らなければない自分に対する価値観は、自分は神に愛された尊いものであるということです。この価値観が、しっかり身について初めて信仰生活を確かなものとしていくことが出来るのです。
I
(イザヤ43:4わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

教会という場所は、ある一定のモラルを持っている人の集まりなので、初めてきた人は自分はここに相応しくないと感じるかもしれません。しかし、それは神によって変えられた結果であり、最初からそうであるわけではありません。病院に行って、医者や看護婦が健康そうだからといって自分がそこにふさわしくないと感じる必要がないのと同様です。                                   J
でも、実際には私たちは今でも作りかえられている過程にあります。ですから、人に近づいて心を開いて話すならば、みんな普通の人であり、それぞれ葛藤している事柄があることが分かります。
そういった環境においては、自分も何か立派な人に見せかける必要が無いことが分かり、楽になるものです。
K
私が、教会のメンバーに願っていることは自分を飾ることなく心がオープンであるということです。
もし、心を開いて互いにオープンな関係を築くことができないなら、人の弱さも見えてこないし、みんなが聖そうに見えるので、その雰囲気に合わせようとして、表面的に自分を良く見せようとして偽善的な態度をとってしまうかもしれません。
L
とはいえ、心をさらけ出すことを口実に「他の人の悪口」や「不満」をぶちまける人がいますがそれは間違ったことです。また、他人の不満を聞く人も「私が話しを聞いて助けてあげなくては」といいながらも、実は「拒絶を恐れていたり」「傷をなめあっている」だけで実際には解決がない場合があります。

全ての解決は神にあります。そして、自分で神に近づけない人をサポートするために牧師やスタッフがいます。ですから、正しいところに正しい方法で自分の問題を持っていきましょう。
M
クリスチャンの中でもこの世の価値観という競争の他に「霊的な優劣感」という間違った価値観もあります。しかし、もし、誰かが霊的に用いられているとした。それはグループ全体の祝福であり、自分もその霊的な勢いにのって引き上げられるチャンスです。しかし、それをねたむなら、それは自分自身を汚しグループ全体を汚染してしまいます。
その人の賜物をそのようなものとして認めるなら「同じ報いを受ける」とマタイ10章41に書いています。
ですから、自分も報いを受けたいなら、相手の賜物、祝福を喜びましょう。
N
自分のコンプレックスといったような、否定的な部分をバネにして努力する人がいます。それによって積極性が生まれ活動的になれるのですから良いものかもしれませんが、そういった思考パターンの中にいると、いつも努力してがんばらなければならないという恐れを持ってしまいます。エホバの証人というキリスト教の異端は、そういった心の傷を利用して人々を布教活動に駆り立てています。
O
また、健全なキリスト教会の中であっても、間違った動機で奉仕をするなら、フラストレーションがたまります。そして「自分はこんなにがんばっているのに、他の人は何も手伝ってくれない。」というような不満を持ったり、物事を完ぺきにこなそうとして周りの人を圧迫してしまうことでしょう。
自分の中に、そんなフラストレーションがあるなら、もう一度自分を吟味して考えてみるべきです。
P
また、自分のコンプレックスを覆い隠す為にがんばって社会で成功しても、その後、別の問題、たとえば高慢になってしまうかもしれません。なぜなら劣等感と高慢の根は同じものだからです。

第1サムエル記にサウルという王様が登場します。彼の初めは謙虚そうですが、後に高慢になり、自分を権威づけする為に宗教的儀式を用いたり、自分の立場を守るために、嘘をついたり、他の人を圧迫するようになりました。そして最後には聖書が禁じている霊媒師を頼るようになり、ついに死んでしまいました。つまり、コンプレックスという心の問題が、彼を数え切れないほどの多くの問題に入れてしまったのです。
Q
ですから、私たちは、他の人と健全な関係を築くためにも、また、健全な霊的成長のためにも、間違った価値観から離れなければなりません。そして神に愛されているという自己像を身につける為にも神に近づき神の無条件の愛を体験するべきです。
R
この世の価値基準では、才能がある人、容姿がよい人がもてはやされ、ともすればキリスト教会でも、それらに加えて霊的であることが値打ちのある人としての価値基準となってしまいますが聖書はこう書いています。

(ルカ12:48)すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。
S
確かに、人の能力は平等には与えられていません。でも、多く与えられた人には、それに見合う責任、すなわち与えられた賜物を生かして用いる責任があることを知っておかねばなりません。神には不公平はありません。