JP−@−C−007 基礎の学び Cグループ 人との関係 (7) 山上の垂訓 (マタイ5-7章)

(始めに)基礎の学びでは基本的に参加者が弱さや失敗も含めて自由に発言できる機会を提供することを目指しているので、基本的にどのように進めてもよいのですが、今回は話し合いの方向性についての指示をいたします。それは「参上の垂訓の教えは基準が高すぎて私にはできない・・・」というような話でお互いを慰めるのに時間を使い過ぎるのではなく、建設的な分かち合いができるように持っていってください。
具体的に言えばEにあるように妨げを取り除くということです。
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A
マタイの福音書5章から7章にかけて「山上の垂訓」と呼ばれる教えがあり、この箇所はクリスチャンとして生きる為の考え方の標準について書かれています。
B
マタイ5:39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。5:40 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。5:41 あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。
5:42 求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。
C
このような言葉を読むときに、たとえ年数の長いクリスチャンであっても、それを実行することが難しいと思えるかもしれません。
D
でも、聖書の教えは、それをただ「命令なのでそれに従わねばならない。」というものではありません。聖書は私たちが本来あるべき姿を示しているのです。聖書は単に「いい人になりなさい」といっているのではなく、具体的な目指す方向性を示しているのです。
E
そしてまた、これは他の聖書の箇所がそうであるように、聖書が言う基準を達成できない、それを実行できないのであるのなら、どういった妨げがあるのかについて立ち止まり考える機会を与えているのです。
その妨げとは、これまで、AグループやBグループで見てきた事柄でしょう。
つまり、それらの問題に気がつき、取り去る機会を提供するためのものなのです。
F
つまり聖書の言葉は私たちを癒し、人生をより良いものとする為のものです。
もし、「〜せねばならない」という視点に立っていないならば信仰生活はストレスでいっぱいになることでしょう。誰も聖書が言う神の基準など満たす事はできないのですから。
G
でもだからといって、「できなくてもいいんだよ」とただ、いっているだけではありません。主は言われました。(1ペテロ1:16)には「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いています。
誰が、神のように聖になることができるでしょうか?
H
私たちには、到達するゴールがあります。それはキリストの似姿に変えられていくことです。それがどれくらい達成したかは大きな問題ではありません。どうあるべきか以上に どの方向に向かっているかが大切だからです。正しい方向に向かうことが大切なのです。
I
その方向に向かうことによって、私達はゆるぎない人生を送ることができるのです。聖書は、ただ神を信じれば幸せになるとは言っていません。その教えを積極的に実行することによって私たちはゆるぎないものとなるのです。マタイ7章24節には「私のこれらの言葉を聞いてそれを行なう者は、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。」
J
岩の上に家を建てるとはゆるぎない人生を手に入れる事を意味します。それでは、これらの言葉とはいったいどの言葉でしょうか?この言葉とは聖書一般であり、救いの岩であるキリストだと解釈されることが多いようです。しかし、聖書本来の文脈を正しく理解するなら、これらの言葉とは明らかに山上の垂訓と呼ばれる。5章から7章にかけての言葉なのです。すなわち山上の垂訓に書いているような反応を自分の世界観として生きていけるなら、ゆるぎない人生を手に入れることが出来るのです。
K
揺るがない人生を手に入れるためにどうすればよいかを聖書は隠していない。誰でも手に入れれるのです。
L
先に引用したマタイ5章の言葉は、これらの教えの大部分は「他の人とどのように接するか」について書いています。すなわち、哀れみを持つこと、人を赦すこと、与えること、裁かないことなどです。つまり、他の人と健全に接することが出来ることは、私たちの信仰生活のバロメーターとなるのです。
M
5章41節にかかれたように1km行かせる人の為に、単に1km行くだけだったらその人との関係はどういったものでしょうか?言われたことを行うだけであったら、あなたは、その人に対して単なる奴隷の関係です。けれども、もう1マイル多く行くなら、あなたはその人の友となるのです。(友達は自分の意志で相手の願うことを行うからです。)
N
5章40節にかかれたように服を取ろうとする人にそれを与えるだけだったら、その人との関係は単なる、強盗と被害者です。けれども、上着すら与えるなら(すなわち全てを与えるなら)、あなたはその人の主人となるのです。(イエス様も、私たちに全てを与えてくださったのですから)
O
これは驚くべき真理です。つまり、「私たちがどのような世界観を持っているかで、他の人との接し方が変わってくる」ということです。
P
そのためにも私たちは、自分が神にあってどういう存在であるかを知らねばなりません。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)という言葉や「もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。」(第2テモテ2:11-12)という私たちに語られた言葉の意味を心の深い部分で理解しているなら、私たちの歩みは変えられます。聖霊がそれらを教えてくださるのです。
Q
聖書が言っている世界観を身につけるとは、神様が見られるように物事を見ていくといった、霊的な視点を持つことであり、私たちの努力にかかっているものではありません。
それゆえ、他の人と関係を結ぶためには、神との関係が大切であり、神との関係を確立させるためには、神との間を妨げとなっている事柄(罪、心の傷、悪い習慣)を取り去られる必要があるのです。
R
山上の垂訓の言葉の本質は心の内面です。外見だけつくろっていれば良いのではなく、動機などの心の内側にあるものが正されることが大切である事を教えています。別の角度から見ていくなら、ゆるぎない岩の上に建てられた人生を建て上げる秘訣は自分の力でがんばって繕うことではなく、正直で裏表の無い心で主に従い、ついていくことにあります。
S
ティーチングレターはマタイの福音書を1章から順番に解説しています。現在、基礎の学びの教えを整理するために、中断していますが、現在No.87まで発行されています。No.21からはマタイ5章〜7章を扱っていますので、この箇所に着いてさらに学びたい方はティーチングレターもご覧下さい。
(21)
日本は人間関係を築くことが難しい国です。人の目を気にしたり、他の人に気を遣いすぎて、疲れてしまいます。それでそういった習慣に嫌気がさして、日本人でありながら、日本人が嫌いな人も大勢います。
でも、その日本人の特性のすべてが悪いわけではありません。神は日本人に「他の人を思いやる」というすばらしい特性を与えました。 ただ、その人間関係のストレスは本来良い特性であるはずのものが悪い形で現れてしまっただけなのです。
(22)
すなわち、神を知らないがために、本来与えられた良い特性をどのようにして発揮すればよいかがわからなくなっているために気苦労する方向に用いてしまっているだけなのです。
外国人が日本に来てまず驚くことは、細やかな心遣いと、他の人に対する決め細やかな配慮です。それら自体は悪いものではなく、もともと神が日本人に与えられた良い特性です。
(23)
どのような国民もまた個人も神によって良い特性、性格があたえられています。大切なことは神に出会いそれらをどう用いていけばよいかを正しいバランス感覚を身に着けていくことです。