JP – @ – D – 007 – 1/3 2015 年版(ver.4) Dグループ 信仰の土台 07 霊的権威

(ルカ7:7-9)、、ただ、お言葉をいただかせて下さい。そうすれば私のしもべは必ず癒されます。7:8 と
申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士たちがいまして、その一人に『行け。』と
言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そ
のとおりにいたします。7:9 これを聞いて、イエスは驚かれ、ついて来ていた群衆のほうに向いて言われ
た。「あなたがたに言いますが、このような立派な信仰は、イスラエルの中にも見た事がありません。」
A
この百人隊長の言葉を聴いてイエスは非常に驚かれ、このような信仰は、イスラエルの中にも見たことが
無いとまで言われたのです。どうしてイエスはこれほどまでに驚かれたのでしょうか?
B
それはこの百人隊長がイエスの持っておられた権威を理解していただけでなく権威の原則を知っていた
からです。その原則とは、「権威を行使するためには権威の下にいなければならない」ということです。
C
どんなに体格の大きく強そうな警察官であっても非番の日に私服で交差点に立って車を止めようとして
も車は止まらないでしょう。けれども、どんな小柄で弱々しい婦人警察官であっても制服を着ているなら、
たとえ相手がやくざや政府の要人であっても、彼女の指示に従って止まります。
D
それはその人の能力や見た目によるのではなく、与えられた権威のしるしを身に着けているからです。
神は私たちに霊的な権威を与えてくださいました。それゆえ私達は圧倒的な勝利者(ローマ8 章37 節)
になることが出来るのです。勝利に満ちたクリスチャン生活と日常生活に追われて圧迫された生活との違
いは神に与えられた権威を用いているかどうかにかかっています。
E
その戦いに勝利する権威は自動的に与えられるものではありません。権威を行使するためには私たちは権
威の下、守りの元にいる必要があります。権威の下にいるというのは権威に服従するという意味です。私
たちは第一に神の権威に服従する必要があります。
F
(ヤコブ4:6-7) しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われてい
ます。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」4:7 ですから、神に従いなさい。
そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。
G
神に従う人は悪魔に打ち勝ち守られると聖書は言っています。打ち勝つといっても多くの場合は戦う必要
もないほどです。悪魔が逃げ去ってしまうからです。
H
クリスチャンであるなら神に従う事の大切さを理解するのは難しいことではないと思いますのでここで
は多くのページを割きませんが、もうひとつ大切な事は神によって立てられた人に従うことです。
I
(ローマ13:1) 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威
はすべて、神によって立てられたものです。
J
この聖書の箇所が言っている事は「その国の法令を守り権威者を敬いなさい」ということです。ダニエル
は偶像礼拝者のネブカデネザル王に対して「王の治世がいつまでも続きますように。」といって尊敬を表
しました。偶像礼拝者の王や支配者を敬い従わねばならないとするなら、ましてやメンバーが霊的に成長
し守られることを願ってやまない霊的リーダー(牧師や教会のスタッフ)を尊ぶ事はなおさらのことです。
K
私たちは霊的な戦いの中にいるのであり、サタンは階級組織を組んで軍隊として活動しているのであるの
なら、私たちも軍隊として秩序にのっとって歩む必要があります。戦いには戦略が必要です。もし各兵隊
が援護射撃が無いのに勝手に戦場に飛び出したら敵の攻撃の的になってしまいます。
L
もちろん「秩序だった歩みをする」とは盲従ではありませんし、言われたことだけをすればいいという意
味ではありません。私達は聖徒の時代に生きています。神は各人の心に浮かんだ自由な願いや、やりたい
事を通じて神の計画を進めて下さるのも事実だからです。
M
JP – @ – D – 007 – 2/3 2015 年版(ver.4) Dグループ 信仰の土台 07 霊的権威
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(ピリピ2:13) 神は、御心のままに、あなたがたの内に働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださる。
人は自由ですけど、それは御霊の導きによる自由でなければ効果的な働きは出来ません。まして放縦であ
るなら、教会に痛みを与えることになるでしょう。あなたの持っている自由が「御霊が与える自由かそう
でないかは」、霊的な権威者を尊ぶ心を持っており、それに喜んで従うかどうかによってわかります。
N
この霊的な守りが与えられる事をクリスチャン用語で「覆われる」といいます。その意味は、傘をさした
時に雨が当たらないように霊的な覆いの傘の下にいるなら霊的に守られるのです。
霊的な守りを与える権威者の事を「覆い」といいます。この教会のメンバーを霊的に覆っているのは牧師
であり、スタッフ達です。そしてこの教会の覆いはメキシコにいるガルサ牧師です。
O
●「覆いの下」にいるとは(1)守りを受ける:
14年ほど前、この教会は学校という公共の場所で集会をしていました。クリスチャンの校長が(周りの
反対をかえりみず)好意を与えてくださり集会の場所として体育館を使わせてくださいました。
ある日、牧師の不在時に建物の鍵の管理を任されていた私は、鍵をかけるのを忘れてしまいました。それ
によってもう建物が使えなくなるかもしれないという危機を通りましたが、私は牧師に謝りまっただけで
後は何もする必要はなく心が平安でいることができました。
P
多くの人は「覆いの元にいる人は守られる」という祝福を見落としています。守られるのは上の体験談の
ように世間の批判から守られるだけではありません。最も重要な事はサタンの攻撃から守られるのです。
Q
●「覆いの下」にいるとは(2)油注ぎ(神の力)を受ける:
(詩篇133:2)それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてそ
の衣のえりにまで流れしたたる。
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大祭司アロンに注がれた油が、とどめられることなく自然に下まで流れる油は油注ぎ(神からの力)を象
徴しています。衣の途中に妨げや破れがあったら油は下まで流れません。私たちの心に反抗や不従順が無
いのなら神からリーダーに与えられた霊的な力や霊的な守りが妨げられずにあなたの元に届くのです。
S
●「覆いの下」にいるとは(3)神に対する従順のバロメーター:
(第1ヨハネの手紙4:20) 神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に
見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。
(21)
この聖書の言葉は別の意味にも適応できると思います。「目に見えるあなたの霊的指導者に従うことがで
きなくて、目に見えない神に従うことは出来ません。」という意味です。
(22)
● どのようにして守られるか。:
「覆い」があなたの為に祈っているのであなたは自動的に守られるのではありません。霊的リーダーは、
あなたの態度、行動が適切でないなら「勧め」「訓戒」を与えるでしょう。その言葉を心に留めて、自分
の行動に反映させることによって守られるのです。
(23)
権威の元にいること、従うことが霊的な戦いで重要な事柄であるなら、その関係を壊したいと最も願って
いるのはサタンです。ですからどのような原因が分裂をもたらすのかを私たちは見ていく必要があります。
ここでは権威者に従えなくさせる理由について見ていきましょう。
(24)
◎ 妨げる原因(1)心の傷や過去の出来事のトラウマ:
今まで学んできたように、過去の人間関係(特に父親との関係)が悪かったために出来た心の傷とい
うものはその個人の中に敵が侵入する足場となってしまいます。
(25)
◎ 妨げる原因(2)持っている霊:
反抗の霊、放縦の霊を持っている人は権威に服従する事はできません。この霊の働きを押しとどめる
のに重要な鍵はへりくだりです。
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これらのトラウマや霊から解放される「鍵」のひとつは「心をオープンにして他の人に分かち合う」とい
うことです。誰でも、心に多少の葛藤を持っているものです。それを信頼できる霊的に成熟した(覆いの
下にいるひと)他の人に分かち合い、祈りあう時に解放がなされるのです。
(27)
先ほど、権威に従う人は覆われ守られるといいましたが、それは別の角度から見るなら、従う人は悪い霊
ではなく良い霊を持っているがゆえ、敵が進入してくる入り口が無いので守られるのです。
(28)
◎ 妨げる原因(3)霊的リーダーに傷つけられた経験:
牧師がメンバーを傷つけてしまうことは起こりうることですが、それによって関係が悪くなることもしば
しば見られます。知っていただきたい重要な事は原因が何であれ、あなたが霊的リーダーの覆い(教会の
守り)から引き離されるならば、サタンはしたい放題の攻撃を加えることができるのです。
(29)
牧師がその人に良い事(アドバイス)をしようとしても教会のメンバーが過去に負ったトラウマや傷がう
ずいて、それに呼応して反応してしまうために、傷つけられたと感じることはたまに見られることです。
(30)
でもそういった出来事のすべてがマイナスではありません。なぜなら、それをきっかけに、心の内側にあ
る隠されたものがあらわにされるからです。多くの人は過去の傷に触れないように心にふたをして生活し
ているので、あまり意識をしていませんが、それらが癒されるためには表面化される必要があるからです。
(31)
特に牧師という存在は霊的な父親でもあるので、自分の父親から受けた「拒絶、無関心、虐待、搾取」と
いった過去の傷が、牧師との関係で掘り起こされる事はよくあることです。ですから霊的リーダーとの関
係に溝が出来ても、それを問題と考えてはなりません。それはより解放を与える機会となるのです。問題
が起こったときに「これを通じて私はどれだけ聖められ成長できるのか」と期待感を持つべきです。
(32)
それに加えて、牧師も完璧な人ではないので、時には配慮を与えることが出来なかったり、その人を霊的
に守ろうとして、慎重になりすぎるあまり過敏に反応してしまって、問題を複雑にしてしまうことも起こ
りうることです。
でもたとえそうであったとしても、私が信じている事は、霊的指導者が神につながっており、誠実である
のなら、それらすべての出来事は必ず益と変えられるということです。実際、不完全な人間である私が教
会を指導する立場に建つことが出来るのも「すべてを神が治めておられ」るという安心感なのです。
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多くの賜物の与えられたクリスチャンが「権威の元にいる」という原則を理解していない為に、大いに用
いられるのが妨げられるだけでなく、時には教会につながることが妨げられ、時には主からも離れてしま
うことが見られます。賜物を持っている人は自分の能力やアイデアが発揮されるのは良いことだと考えま
す。でも人生という長い期間を通じて神が自分の人生を立てあげてくださることを知るべきです。その為
にまず第一に学ぶべき事はへりくだりであり、従う姿勢です。いったんそれを学んだならば、神はその人
を将来大きく用いることでしょう。
(34)
私は皆さんが伝道熱心で、哀れみにあふれて、活動的であることを心から願いますが、その人の持ってい
る態度が正しくないのなら、それによって多くの実を残すことが出来ないばかりかかえってキリストの体
にダメージを与えることになるでしょう。
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(民数記12:2) 彼らは言った。「主はただモーセとだけ話されたのでしょうか。私たちとも話されたの
ではないでしょうか。」主はこれを聞かれた。
このケースでは、モーセが外国人の女性と結婚していたことが攻撃の口実となっていました。人の目には
それは問題であっても、神の目には問題ではありませんでした。
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そういった個人攻撃、人格攻撃から始まって、ミリアムとアロンはモーセに逆らいました。その根底にあ
ったのは「私たちも神の声を聞くことが出来る」という高慢な思いでした。彼らの上にも確かにすばらし
い油注ぎ(神からの力)がありましたがその油注ぎのレベルの違いを理解していなかったのです。