JP – @ – 002 – 1/2  2015年版(ver.4) Eグループ 良い地に種をまく02教会の種類とカトリック

世界には多くの種類の教会が存在します。ある人はそれを神の御業の多様さの表れであると考えますが悲観的に見ると「教会が分裂して一致が無い」と言えます。私達はそれらをどう理解するべきでしょうか。
A
教会の種類がたくさんあるからといっても仏教の宗派がたくさんあることと根本的な違いがあります。健全なキリスト教会は同じ聖書の全66巻を神の言葉として信じています。またイエスキリストを救い主として信じています。そういう意味においては、教会は一つであり同じ神を信じ、一致しています。
B
もちろん異なった教えを持つ「異端」と呼ばれる教会も存在します。代表的なのはモルモン教とエホバの証人です。彼らは先ほど上げた最低2つしかない条件にすら合致していません。
モルモン教は聖書を信じず「モルモン経」という独自の書物だとして信じているので条件にあっていません。エホバの証人は間違った訳の独自の聖書を用いており、また、キリストの神性を認めていないので間違った教えなのです。彼らはキリスト教ではありませんし、そこでは救われません。
C
異端と呼ばれるほど明らかに聖書に反していなくても、プロテスタントといいながら、イエスが処女マリアから生まれた事を認めなかったり、創世記1章―3章の記述を文字通り認めていない教会もあります。
D
また、聖霊の賜物は現在ではなくなってしまったとか、異言は悪魔からのもので語ってはいけないというような、間違った教えは、いわゆる正統派的なキリスト教会ででもなされているのを良く見かけます。また、細かい解釈、意見の違いを取り上げたらきりがありません。
E
そういった中で私達はどのようにして、良いものと悪いものを見分け、また強調点や解釈が異なる人たちと一致して進んでいくことができるのでしょうか。
教会を理解するのに必要なのは教理や歴史的背景によって分類するのではなく、向かっている方向性によって分類するべきです。もし教理や背景によって分類するなら、何百という種類の教会に分類されるでしょうが、方向によって分類するなら、2種類しかありませんすなわちキリストに向かうものと、そうでないものです。

F
次の図式では、教理の純粋性と、キリストに向かう方向性が示されています。

(注意:)この図はネット上では正しく表示できません。PDFファイルをご覧ください。


キリストへの方向性  →   ・    ←←←←        ・
キリストの似姿 ( 教会A)(教会B) (教会C)       (教会D)       サタンの似姿
教えの純粋度100%------------------------75%-----------------------50%------------------------25%---------------------------0%
正しい教理の教会  バランスを欠いた教会  間違った教えの教会  異端の教会  悪魔教会

G
たとえば(教会A)は正しい教理を持っていながらも、高慢になってしまい方向がキリストに向いていません。
(教会B)はそこそこ良い教えの教会ですが、キリストに対する情熱が醒めておりどこにも向かっていません。
(教会C)は「奇跡はもう現在では起こらない」という間違った教えをしている教会ですが、心からキリストを熱心に愛しており、力強くキリストに向かってます。
H
神は教会A、Bよりも教会Cを喜んでおられると思います。(教会B)は無難なのでましのようですが、黙示録3章16節には「あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」と書いているように、生ぬるい信仰は神は喜んでいません。でもだからといって(教会C)はそのままで良いわけではなく、教理や教えの点においても正しくなっていく必要があります。
I
現在、時代とともに教会が変化しているように見えますが、実際には15世紀を頂点に堕落してしまった教会が、初代教会に示された真の教会の姿にどんどん回復していっているのです。神が真理を回復させるときにすべての教会に一度に真理を示すのではなく、一部に与え、そこから広がっていくようにされました。その時に差異が生まれ、それまでの伝統が覆され他の教会との違いを形成され教派が生まれます。
J
ですから大切なのはへりくだって聖書に照らし合わせ次々に回復される真理を学んでいく姿勢です。よく見られる問題は真理を受け取った教会が高慢になる事によって、周りの教会が拒否反応を示してしまうことです。
伝統を守る教会は良いものを守りたいという良い動機で「新しい流れ」を排除しているのであるなら、それに対して「自分たちは真理を知っている、あなたたちは遅れている」という態度で裁くべきではありません。
私達の態度が正しければ、そのうちに認められることでしょう。


カトリック教会につい

K
カトリックが良いか悪いかを論議するときに一つ大きな事を見逃しています。それは彼らはローマ教皇を中心とした一枚岩の組織だと勘違いすることです。しかし実際には内部でもかなり大きな開きがあります。すなわち、聖書的な教理を持った教会もあれば、公然と悪霊を拝んでいる教会もあります。ですから、「カトリック云々」という言い方はある特定の国の国民が良いか悪いかというぐらい、かなりあいまいな論議です。
L
ただし、まず強調しておきたいことは、「カトリックの教理は異端」だということです。それは「マリアが神の母として罪を持たずして生まれ天に帰った」「マリアはキリストと人をつなぐ仲介者である」などといった致命的な異端教理を持っているからです。マリアに神性を認める事は天の女王(女神)礼拝=偶像崇拝につながる重大な悪魔的な信仰です。また、その他にも幾つものあきらかに間違った教理を持っています。
M
ですからカトリックとは何かを一言で言うなら「その教理は異端であるが、信仰の態度はおのおのの教会や、個人によって異なる教会」といえるでしょう。ちなみにラテンアメリカのカトリックは世界最悪の信仰で、20年ほど前まではイエスを救い主と信じた人はカトリック教会から追放されていたほどです。
N
ちなみに「クリスチャン」という用語の意味は世界共通ではありません。メキシコでは聖書的信仰を持ったクリスチャンのことであり「カトリック」という用語の中には「クリスチャン」は含まれません。つまりメキシコのカトリックにとって「クリスチャン」とは異端なのです。これを見るといかに歪んだ信仰かがわかります。
O
今日のカトリックの問題は、昔の不寛容から一転して他の思想、宗教に寛容政策をとっていることであり、ニューエイジ的な「神は唯一であるが、それに至る道はたくさんある」的な考え方に侵されています。
また、かっての頑固さを正すために地動説を唱えたガリレオの正しさを認めたことは良い事ですが、逆に1996年にダーウインを赦し進化論まで受け入れるような極端に走っています。
P
これまで知らされていたマザーテレサ像が虚像に過ぎなかったことが今日、明らかにされていますが、それほどまでに、カトリックの宣伝は巧みであり、今日多くのプロテスタント教会も間違った教えに引き込まれており、黙示録に書かれた世界統一宗教に向けての準備がされています。
Q
中には正しい信仰を持っているカトリック教会もあるでしょうが、バチカンの間違った見解に対して抗議を示していないなら信用できません。そのようなわけで日本のプロテスタント諸教会は「批判しないまでも距離を置いて関わらないようにしている」のが現状で、その教理が異端であることは知っておく必要があります。
R
では、カトリックに対してどう接するべきでしょうか? 基本的に他の宗教に対する態度と同じです。すなわち「(1)イエスを父なる神にいたる唯一の道、また救い主と信じる。(2)聖書を真実と信じ他の書物の権威を聖書以上にしない。(3)イエスの神としての神性を認める。(4)マリアや聖人礼拝せず彼らに祈らない。(5)ローマ教皇の間違った言動やり方に同意しない」という点です。ただ、これら5つの条件を満たしているカトリック教徒は少数派です。というかローマ教皇に逆らうならカトリックとはいえないでしょう。
S
今日、異言を語る聖霊派のカトリック教徒というものも存在しますが、彼らが異言を語り癒しや預言をしたからといって、それだけで彼らを受け入れてよいわけではありません。上記の条件を吟味する必要があります。
(21)


■キリシタンについて
戦国時代に日本宣教の中心となったイ工ズス会はプロテスタントによって縮小させられた教皇の権威と財力を回復させるための工作部隊であり、植民地支配の手先でもありました。ザビエルは秘密結社のフリーメーソンのメンバーでもありました。(もっとも、悪意を持っていたのは上層部であって純粋にカトリックを信じていた宣教師も多くいたでしょうが)
また、キリシタンはカトリックによって宣教されたので純粋な教理を聴かされていたわけではありません。彼らはイエスについてはほとんど語られず、ゼウス(父なる神)とマリアに対する信仰が中心です。
(22)
とはいえ、先ほどの「キリストに向かう方向性と向かおうとする力」の説明に照らし合わせるなら「死にいたるまで純粋に信じた彼ら」は今日の誰よりも優れた神を求める方向性を持っているといえるでしょう。
キリシタンを高く評価しすぎることは問題ですが、すべてを否定してしまってはなりません。