JP – @ – 004 – 1/2  2015年版(ver.4) Eグループ 良い地に種をまく04 どうして苦難があるか

この世には生きていく中でさまざまな苦しみがあります。それはクリスチャンであっても同様です。私たちはどのようにそれを理解することができるでしょうか。
A

  1. 問題は自然に起こるものだから

人が神の秩序を乱してしまった結果、自然界は「虚無に服してしまった」とローマ8章20節に書いています。ですから、誰がどうしたからという理由が無くても自然災害や病気は起こるのです。それはクリスチャンであっても同様です。
B

  1. この世は悪しきものの支配下にあるから

(1ヨハネ5:19)私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。
この世界はサタンの支配下にあると聖書は言っています。そうであるなら、苦しみや困難があっても当然です。それに加えて、私達のうちに敵が侵入する足場があるならなおさら苦しみにもあうことでしょう。
C

  1. 不義

この世が悪しきもので満ちているのであるなら、いわれのない災いが起こって当然です。すなわち、いじめ、レイプ、親からの虐待などです。不義が起こる原因はあなたの落ち度にありません。一切責めを受ける必要はありません。これについては、Eの7「不義について」で詳しく見ていきます。
D

  1. 無知、おろかさの故

神は私たちに守りと保護を約束しています。にもかかわらずその約束を知らなければ守りを逃す場合があります。神が私たちの繁栄を約束しているのに「クリスチャンは清く貧しいべきである」と思い込んでいたら、祝福を逃すことになってしまいます。
E
また、当然の事ですが、放縦な生活、借金、家族を大切にしない、欲望、間違った価値観を持っていたり、その他、あらゆる不適切な行動や関係は問題を生じさせます。
F

  1. 間違った契約や呪いを解いていないが故

基礎の学びAグループやBグループで学んだような、過去の出来事を処理していないときに負わなくてもいいはずの問題を背負い込むことになります。(詳しくは過去の教えを振り返ってください)
G

  1. 苦難が起こる事を神が許されているから

それでは神は全能なのに、どうして偶発的な事故が降りかかったり、サタンがその力を発揮することができるのでしょうか。それは、そういった事柄を通じて私たちが変えられることができることを知っておられるからです。それは次のような効果をもたらすからです。
H

  1. 私たちを作り変えるため
    1. おろかさを取り去る:

(詩篇119:67)苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたの言葉を守ります。119:71 苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。119:72 あなたの御口の教えは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。
I
私たちの中には苦しみを通じてでなければどうしても変えることができない頑固さやおろかさというものが存在します。苦しみは私達を精錬する炎となるのです。
J
(1ペテロ1:7) 信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。
K

    1. 他の人を思いやるため             

人の本性は自己中心的ですが苦しみの経験により、へりくだり、他の人に気遣うようになります。
(2コリント1:4)神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。
L
この聖書の言葉の素晴らしいところは、「神から受ける慰めによって」という部分です。もし、単に、「苦しみを経験したから他の人を慰めれる。」というのであるなら、自分が経験した苦しみの範囲内でしか人を慰めることができず、それ以上の大きな苦しみを負った人には無力になってしまいます。人が経験する苦しみはそれぞれそのレベルが異なるからです。
でも私達が持っている他の人を慰める力は、自分が経験した苦しみの度合いに基づいたものではなく、「神から受ける慰めの経験によって」です。すなわち神に触れられる経験をした人は「どのような苦しみ」の中にいる人をも慰めることができるのです。私達がする事は神の愛と慰めを流していくからです。
M

    1. 私達の快適さを打ち壊す。

私達が人生を楽しんだり、物質的に豊かになることは神の御心であり、悪いことではありません。私達の神は禁欲主義の神ではありません。
けれども、人は弱いもので、その快適さは多くの場合、私たちの霊的な目を曇らせ、他の人を思いやる心を鈍らせ自己中心的な心を芽生えさせてしまいます。
N

    1. 動機を探るため

(申命記8:2)それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。
O
実際、何かをするためにもっとも重要なのはその動機です。誰でも間違えること、勘違いすることはありますし、それを恐れず物事を進めていかねばなりません。けれども動機が悪いというのはすべての悪の根本です。あなたの行動は何のためか(金銭、名誉、人をコントロールする為、心の傷からでたものか)などといった動機を神は試みを通じて探ります。
P
ですから、時には私たちが失敗することを容認されます。そうであるなら、あなたがどれだけ完璧に物事をこなそうとしても、失敗してしまうことも起こりうることでしょう。
Q

  1. 私たちを幸せにするため

上の聖書の言葉を読み進んでいくと次のような言葉が出てきます。
(申命記8:16) 前略、、、それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。・・
R
そう、私達が苦しみを経験し、それを通じて主が私達の動機を探られることには目的があります。それは私達が幸せになるためなのです。
(20)
すべては益と変えられる。
(ローマ8:28) 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
(21)
この世の人たちと、私達クリスチャンとの根本的な違いはここです。神の子供である私達が苦難に会うことを容認されているのは、今まで書いてきたような益をもたらすことを知っておられるからです。
(22)
私が記憶している最もすばらしい賛美の経験は2004年クリスマスである土曜の夜に食中毒になった翌日の日曜日の集会のことでした。食中毒は何とか治まりましたが脱水症状で苦しんでいました。賛美の中で主の臨在を感じひれ伏していました。というより、立ち上がる力がなくへたり込んでいたというのが正解ですが、自分の力では何もできないという中で本当に主の恵みと哀れみに触れる経験をしました。
(23)
どのような苦しみも、それで苦しんで終わるものではありません。私達が信仰をもって、積極的に主に心向けるなら、神はそれらのすべてを益としてくださるのです。
それゆえ私たちは時が良くても悪くても、へりくだりの中でひたすら主の栄光を求めて歩むのです。