JP – @ – E – 005– 1/3  (ver.4) Eグループ良い地に種をまく05タブー(してよいこと、悪いこと 

クイズから始めます。次の事柄の内でクリスチャンになったらしてはいけない事はどれでしょうか?

A)、人を殺すこと           
B),ものを盗むこと
C),人の悪口を言うこと
D),ABCの上の3つのすべて
E),ABCの3つのどれでもない

A
A,B,Cのどれもするべきではない事なので、多くの人が答えはDの「三つのうちのすべて」と答えたかもしれません。けれども正しい答えは(E)「三つのうちのどれでもない」なのです。
これはひっかけ問題です。クリスチャンになったらという点に注目してください。もちろんA,B,Cのどれもするべき事ではありませんが、クリスチャンになったとたんにしてはいけなくなるわけではなく、それらは人は誰でもするべきではないのです。
B
私達は時々勘違いしますクリスチャンになったらしてはいけない事が増えると思っている人がいます。でも実際はそうではありません。クリスチャンとそうでない人との行動の基準の違いは何も無ないのです。
C
クリスチャンがしてはいけないこと(盗み、人殺し、うそをつく)はそうでない人もしてはいけないのです。
D
未信者の人に「クリスチャンって〜をしてはいけないんでしょう」と聞かれて「聖書に〜をしてはいけないと書いているから従わねばならない。」と説明したら「クリスチャンになるっていうのは窮屈なことだ」と感じることでしょう。そればかりではなく(極端に言えば)不正確どころか間違った教えを与える事になります。
けれども、「クリスチャンになってもしてはいけないことは一つも増えない」という視点は未信者に大きなインパクトを与え、彼らが心を開く機会となるでしょう。
E
とはいえ確かに、世の基準ではOKであり、また法律に触れなくてもしてはいけないことはたくさんあります。
F
たとえば、夫婦以外の関係で行われるSEXなどがそうです。これはその人の人生に大きな問題を与えます。この世の人があまり知らない深刻な問題は相手の人と霊が結びつき一つになってしまうことです。霊が結びつくときに相手の人の霊的影響を受け、また霊的な束縛がもたらされます。また、罪を犯すときにそれは悪霊たちにエサを与えることになり、社会全体に呪いをもたらします。
G
クリスチャンを含めて多くの人は悪いこと、間違った行動をしたら「神が怒る」とか「裁きにあう」という視点で考えて行動を自制しようとします。けれどもそれは正確ではありません。私達がするべきではないことをした結果、不利益を受けてしまうからなのです。私達が束縛されたり、サタンの進入口を作ってしまったり、人の救いが妨げられ、社会に呪いがもたらされることを神は悲しまれているのです。
H
たとえこの世の常識が容認していたとしても、聖書が何かを禁じている、あるいは控えるように進めている事柄は、私達の益にならない事、のろいをもたらす事であり、それをあらかじめ教えてくださっているのです。
I
たとえば漂白剤には2つの種類があります。酸素系漂白剤と塩素系です。それらの漂白剤を混ぜて使うと有毒ガスが生じます。ですから、それらの製品にはこう書いています。「混ぜるな危険!」 でもその説明を読んだからといって「漂白剤の会社は私達に害を与えようとしている。」などと考える人は誰もいません。むしろ生産者だからこそ知っている有益な情報を私たちに提供しているのです。
J
聖書の言葉についても同じです。聖書は私たちが害を受けることがないように有益な情報を提供しています。神は世界のすべてを作られた方なので何をどうすればよくないことが起こるかについてよくご存知なのです。
K
■ では、ここで飲酒について考えて見ましょう。実は聖書には飲酒を禁じている箇所はありません。(マタイ11:19)でイエスが『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言って批判されていたのを見るなら彼もワインを飲まれていたようです。
また、(1テモテ5:23) 「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のためにも、少量のぶどう酒を用いなさい。」とあるように、少量であるならむしろ飲酒を勧めています。
L
ですからクリスチャンだからという理由で酒を飲んではいけないと言うならそれは明らかに聖書の言っていること以上を教えていることになります。聖書は飲酒を禁じてはいないからです。
M
けれども、そういった中で多くのクリスチャンが飲酒に関して消極的あるいは否定的なのには理由があります。第1コリント6章10節に「 盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。」と書いているからです。
N
話を総合するなら「少量は良いがたくさん飲んで虜(とりこ)にされるなら神の国に入れない」というわけです。だけど、その線引きがいったいどこにあるかは誰も正確にはわかりません。そうであるなら、聖書の言葉以上の手前で線を引くことには意味があることなのです。
また、日本にもかなり多くのアルコール中毒がいますが、それはちょっとした飲酒から始まっています。
O
聖書の言葉がそのようなものであり、世の現状がそうであるなら多くのクリスチャンが持っている「基本的にはお酒を飲まない」という標準的な考え方には納得するべき理由があるのです。
P
もうひとつの大きな理由は「飲酒を避ける事」は日本を始めとして多くの国におけるキリスト教の文化だからです。文化と言うものは律法や法律などといった理屈で量れるものではなく、尊ばれるべきものです。文化を破るのは自由ですが周りに人に嫌悪感を与えない程度の配慮は必要だと思います。
Q
そういったことを踏まえた上で、実際の生活にどのように適応できるでしょうか。たとえば、仕事の同僚に飲みに行こうと誘われたと仮定します。日本人で特に男性の場合、自分の生活に問題があっても「ちょっと悩みを聞いてください。」などとは言わないでしょう。「飲みに行こう」という言葉は時には「ちょっと悩みを聞いてくれ!」という意味かもしれません。
もし「そんな酒の席には一切行くことはできない」という立場を取るなら、神の愛を届ける機会も失うでしょう。ですから酒を一切飲んではいけないという教えを私はしていないのです。
R
でも、もし、あなたが飲みたくないのであるなら、クリスチャンでなくても世の中には飲まない人、飲めない人はたくさんいるのですから、あらかじめ「飲まないけど付き合うよ」と言うこともできるでしょう。
(20)
本来聖餐式にはワインを使いますがSCGではジュースを用います。でもワインを用いている教会もあるので別の教会でワインを出されても驚かないで下さい。
(21)
■未信者の異性と男女交際について
一言で言うと絶対にだめではありませんが、ただ、その交際の目的とゴールは何なのかを考えるべきです。信者、未信者を問わず、友達関係以上の男女の関係の目的は結婚へ至る過程であるべきだからです。
(22)
(第2コリント6:14 不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。
(23)
この御言葉には「不信者とくびきをともにしてはならない」と書いています。それは結婚についても含まれるでしょう。交際に反対しなかったとしても結婚に賛成できるわけではありません。
(24)
第一、たとえ相手がクリスチャンであれば誰とでも結婚していいとは私は思いません。(神の導きが必要である事をことさら強調するつもりはありませんが)クリスチャンの看板を掲げているかどうかが問題ではなく、キリスト教的価値観の生き方を受け入れているかどうかも重要です。そうであるなら未信者との結婚はなおさら慎重にならねばなりません。
またクリスチャンであっても結婚前に十分結婚に対する教え、カウンセリングを受ける必要があります。
(25)
キリスト教世界では男性のクリスチャンが少ないのですから、数学的に言うならクリスチャン男性と結婚できるクリスチャン女性は少ないことになります。
(26)
後に説明する「成熟することが大切」という視点で言うなら、成熟したクリスチャン女性が未信者との関わりの中でその方がクリスチャンとしての生き方の素晴らしさに触れて信仰を持ち、救いに導かれてそして結婚するという事は良いことです。ある意味で最高の伝道方法ともいえます。
ですから、そういうこともあって未信者との交際に扉を閉ざしてはいないのです。
(27)
ただ、こればかりは一筋縄ではいかない問題がたくさんあります。恋愛感情を伴うわけですから感情的に引きづられ、コントロールされあなたが彼をキリストの元に導く代わりにあなたを迷わすことでしょう。
また交際前に交際の意味を確認しあう必要があります。世の基準だと交際すればセックスするものだからです。
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男性は目的思考なので、結婚前ならあなたを手に入れる為には何でもするでしょうから。結婚前に救いに導けないのなら、結婚後に救われることを期待しないほうが良いでしょう。
あなたが解き放つキリストの香りが交際中の彼が「感じれず、救いを求めようと思わない」程度のものであるなら、それが良い交際であるとは思えませんし、それがその人の限界かもしれません。
(29)
ですから、牧師としてのアドバイスは飲酒であれ、男女交際であれその他の事柄であっても、「して良いか悪いか」という視点ではなく、その人が成熟しているかどうかが問題なのです。成熟したクリスチャンがすることは何でも祝福され、結果的には神の栄光の為に用いられますが、そうでなければ呪いとなる場合があります。
(30)
この世には聖書の視点から見て「良い、悪い」の一言で割り切れないグレーゾーン(灰色地帯・黒でも白でもない)の事柄はたくさんあります。
ですから、判断に迷うでしょうが、実際の判断材料は「して良い事か悪い事か」というよりは「動機」や「ビジョン」、「これを通じて神が何をなされるか。」なのです。そしてそれを支えるのは「成熟さ」なのです。
私が願っている事は、あれはしても良い、あれはいけないと教えることではなく、一人一人のクリスチャンが成熟して、世の影響に流されてしまうのではなく、自分で考えて行動し、神の栄光を表すことです。
(31)
多くのクリスチャンが「これはいいか悪いか」にフォーカスを当てて生活しています。でも世の人は「あなたが何かをしないから」という理由であなたを尊敬したりしないでしょう。でも積極的にその人に関わって助けたりするときにあなたを尊敬したりキリストの香りを味わう機会を得るのです。
(32)
行動を規制して、メンバーが霊的に過保護になり、信仰を失わないけれど生き生きとした信仰をもてず、教会も成長しないようでは困ります。教会が世の人と関わらないようにして信仰をやっと維持している「いいこちゃん」クリスチャンの集まりであってはなりません。
私たちは世に出て行って、世の人と関わりを持ち、キリストと共に生きる価値観の素晴らしさを伝えていくべきだからです。
(33)
ですから、この基礎の学びのシリーズを通じて一貫して教えていることは、行動の規制を与えることではなく、その人の霊を生かし、解放し、成熟させることです。「解放を与えないで行動の自由も与えない」というのは最悪のやり方でしょう。
(34)
けれども勘違いして欲しくないことは、基礎の学びを受けたら自動的に癒されたり解放されるのではりません。教えられた内容を実践するときにその実を見ることができるのです。すなわち、人を赦す事、罪を悔い改めることなどはもちろん、人との関係、デボーションの習慣がある祈りと賛美の生活、献金をすること、奉仕をすることが大切なのです。また、心をひらいて透明な関係を築き上げることです。
それらの成熟のしるしを見るならば、人々の魂をキリストの元に勝ち取るために、牧師は安心してグレーゾーンに教会メンバーを送り出すことができるのです。
(34)
ですから、信仰的に弱かったり、感情的に流されやすかったり、牧師や教会に対して不信感を持っている人に対しては「さあ、どんどん出て行って、福音のために世の人と関わりを持ちなさい」とは言えません。サタンの餌食になるのを黙って見ているわけにはいかないからです。そういった場合、その人の行動にストップをかけるようなアドバイスをすることもありうることをご了承ください。