JP – @ – E – 006– 1/3  (ver.4) Eグループ良い地に種をまく06 日本についてと日本の文化と習慣への対応 

キリスト教という習慣がない日本において教会やキリスト教的な事柄はある意味で異文化です。
だからといって勘違いしてはいけないことは「クリスチャンになること=日本人をやめること」ではありません。クリスチャンになるということは、本来神が与えた美しいその民族の特性を引き出し愛することにあると思います。なぜなら、文化はその国や民族に与えられた神からプレゼントだからです。
A
(使徒17:26〜27) 神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。(後半省略)
B
聖書は文化を否定しておらず、国や文化の違いを通じて人々は神を知ると語っています。そしてパウロは「ユダヤ人にはユダヤ人のようにギリシャ人にはギリシャ人のようになって福音を伝えた」と語っています。
 C
それでも、確かに日本のすべての文化や習慣の中には神からのものではなく、悪霊からきているものも多くあるのも事実ですから見分けていく必要があります。
また、前回話したグレーゾーン(良い、悪いとはっきり言えない事柄)もたくさん存在します。グレーゾンに関してはすべて杓子定規的に判断する必要はないと思います。ただ、私自身は神を畏れ聖さを保ち問題を排除するためにグレーゾーンのものであってもできる限り避けるようにしています。
D
■ 葬式
葬式は人生の節目であり、人間関係の中でも大きな出来事です。また、けじめをつける時でもあります。日本ではほとんどの葬式は仏教式で行われますがだからといって、それが理由で出席しないというのは知恵のある事ではありません。むしろ積極的に参加し哀悼の意を表し遺族に対して慰めと励ましを与えましょう。
E
そこで多くの場合に問題となるのは焼香かも知れません。ほとんどの人は、焼香を通じて仏を礼拝しているとか故人を礼拝しているという意識は持っておらず、ただ自分ができる方法で故人に別れを告げているのです。ですから、それを即「偶像礼拝」であると決め付けることはできないでしょう。
F
ちなみにキリスト教式葬儀で行われる「献花」は日本だけの習慣です。仏教式でする焼香の代わりに花を(故人ではなく主に)捧げます。それは、仏教式に慣れている人にとっては、何も捧げないのは居心地が悪いだろうという配慮でもあります。
G
心の中で何を思い、何に向かって捧げるかが一番の重要なことであり、心の中で故人が仏や守護主になることを信じたり、成仏できるように祈ったりせず、むしろ積極的にキリストに祈るのであれば焼香してもかまわないのではという考え方もありますが、多くの聖書的なキリスト教会では「偶像に向かって香を炊くことを神が忌み嫌った。」と聖書にあることから、焼香はしないという考え方が一般的です。
H
焼香をしなかったとしても周りの人と調和していく為にもっとも重要なことは「愛」に基づいた動機を示すことです。つまり愛を与え、気遣い、慰めを与える態度です。
前に出て行って会衆の面前で焼香するような場合に焼香しなかったとしても周りの人は自分が意識するほどあなたを見てはいないものです。
I
ただ、何にしてもそうですが、どうか自分の信仰の量りに応じて、何をどうするかを決めるとよいでしょう。特にこのような人情的、感情的な事柄に関して、自分ができないことをただ、そう言われたからという理由だけで無理な行動をすることはありません。
J
■ 結婚式
神道式の結婚式であっても出席する事には問題ありません。むしろ祝福を与えるべきです。たとえ創造主なる神の前で結婚を誓うのでなくても(イザヤ65:16) 「、、この世にあって誓う者は、まことの神によって誓う。」と聖書に書いているようにその結婚は神の前に有効であり、家族、親戚、友人を祝福するのは良いことです。
K
神道の結婚式で問題になるのは「親族杯の儀」と呼ばれる偶像に捧げた酒を親族がひとつとなる契約の為に飲む儀式です。神道版聖餐式のようなものです。そういった事に対し合理的な解決策を持たねばなりません。
L
偶像に捧げられた酒については2つの解決策があります。ひとつは飲んでも大丈夫だという考え方です。聖書にはこう書いています。(1コリ8:8)「しかし、私たちを神に近づけるのは食物ではありません。食べなくても損にはならないし、食べても益にはなりません。」この記述によるなら偶像に対して捧げられたものであっても飲み食いしてもよいのです。そういった意味では、その酒を飲んだからといって問題はありません。
M
けれども、偶像に捧げられたものに対するパウロの話はそこで終わらず、幾つかの事柄を分かち合った後、彼の結論は、今後いっさい(偶像に捧げられた)肉を食べないと宣言しています。つまり、食べても害は受けないだろうが「私は証のためにも、良心のためにも、また神のためにも」それを食べないと言っているのです。
N
神道の結婚式の酒の問題は神道の神の名で家族をひとつにする儀式にあります。式に出席すればその場を離れることはできないので、できることといえば酒を飲まないか飲んだふりをすることでしょう。ふりをするのが良心に反するのでしたらどうぞ自分で考えて行動してください。神が知恵を与えてくださいますように。
O
ただ、今まで見てきたような事柄がクリスチャンの信仰を測る踏み絵のようであって欲しくもありません。互いの行動についてクリスチャンを裁かないようにしましょう。
P
(ローマ14:1) あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。
(ローマ14:22 あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。
Q
■ 墓参り:
墓や故人を拝むのでなければ、墓参りはとてもよい機会です。クリスチャンは先祖を大切にしないという誤解がありますから。墓を拝んで先祖を礼拝sてはなりませんが、先祖を尊敬し敬う気持ちは持つべきです。
お墓参りに未信者の家族と行って熱心にお墓を掃除するならクリスチャンが先祖を敬っている証を立てる機会となるでしょう。
R
それは偶像礼拝を援助する行為になるのではないかと危惧する方もいますが、第二列王記5章18節でナアマン将軍が、イスラエルの神を信じながらも主君の偶像礼拝の補助をしなければならない事を心配してエリシャにたずねたところ「大丈夫ですよ」といわれました。そのように、それは許容されることです。
S
■ 初詣、神社:
悪霊は人の心に足場があるときに開かれた扉を通じて入りこむので神社やお寺に行くことによって即悪霊にやられるとは思いません。神社の神を礼拝したり、それに願をかけるのでなければ神社に行くことは問題ありません。
(21)
でも信仰が弱かったり恐れを感じるのでしたらやめたほうがいいでしょう。悪霊に対して恐れを持つときにそれは相手を偉大な存在だと認めることですから、逆の意味でサタンの名を高く掲げることになります。
(22)
■ 七五三: 
その起源はともかく、これは明らかに神社の神に子供を捧げる儀式です。
それには「子供を守ってください。この子をあなたに捧げますから」という意味があります。
(23)
■ 国旗:
自分の国や自分が住んでいる国を敬うのは当然であり、国家を敬うなら国旗も敬うべきです。かなり多くの日本人が国旗を嫌っています。それは太平洋戦争のトラウマと罪責感を植えつけられた事から来ています。
(24)
過去の戦争犯罪と呼ばれるものの多くは捏造や誇張であり、それは連合国が罪責感によって日本人を戦後もコントロールしようとする戦略によるものです。そうであるなら、それによって国を愛し敬うことをやめてはいけません。また、理由はともあれ70年ちかく前の出来事に現在を支配させてはなりません。
(25)
(※)日本が戦争をした原因はもともと世界中を植民地化していた西洋列強に対して日本が立ち上がったことにあります。日本は負けましたが、その後、アジア、アフリカ諸国は独立し、黒人は人権を得ました。
 (26)
■ 国歌:
国歌の場合も基本的には国旗と同様に尊敬を持つべきです。キリスト教界の一部では「君が代」は天皇を崇拝する歌であると考える人がいますがそのようなことはありません。
「メロディーが暗いのでいやだ」と言う人がいますが、日本は世界でもっとも歴史が長い国(※)なので建国数十年や数百年の国と同じでありたいと思うことはありません。
(27)
(※)中国は数千年の歴史がありますが、時代ごとに王朝が変わり、支配する民族も変わっています。日本は天皇のの統治が少なくとも千五百年、長ければ二千数百年の一貫した歴史を持つ類まれな国です。
(28)
■ ひな祭りと端午の節句:
その起源において呪術的なものがあったかもしれませんが今日では、その意味合いはほとんど無くその存在自体はグレーゾーンです。けれども、「片付けるのが遅れたら結婚が遅れる」などという縁起担ぎは呪いともなるのを見るときに、単なる人形を飾る以上の呪術的な意味合いがあることがわかります。
私の家では玩具であっても一切の人形は家に置かないようにしています。
(29)
端午の節句もひな祭りと同様ですが、今でもより霊的なメッセージがあると思います。それは「こいのぼり」の歌の第三番にかかれているように、男子が鯉のようにたくましくなった結果、竜(サタンの象徴)となることを願う祭りだからです。
(30)
こういった事柄を見ていくなら数限りなくあるでしょう。もちろんクリスチャンとして受け入れてはならない習慣もありますがグレーゾーンの事柄については、自分で選び確信を持つ必要があります。
信仰の弱い人が「こういう場合はこうしなければならない」あるいは「こういうことをしてはいけない。」という指示に従うことがすなわち信仰とは思いません。
(31)
ここに書かれた、するべきではない事を行ったからといって、多くの場合はすぐに悪霊に束縛されてしまうわけではないでしょう。もしそうであったら、もっと簡単に見分けることができたでしょう。
(32)
■ クリスチャンが結婚式で神道の酒を飲んだとたんにその人に悪霊現象が起こり霊的束縛が生じたという話を聞いたことがあります。そのように他宗教の儀式に参加するときに確かに何らかの霊的な影響を受ける可能性があるのも事実でしょう。
でもそのことが起こったのはその酒に問題があったとは限りません。問題はその人がサタンが進入してくる足場を他にも持っていたことであり、酒がそれを表面化させ、取り扱うきっかけとなったとも考えられます。
そのように、神が悪霊の活動を容認されているのは、私たちを滅ぼすためではなく、私たちを聖めて完全に傷のないものへと作り変えていくためという目的があることを知るべきです。
(33)
そういう視点に立つなら、これまでの教えの中で、この世の習慣に合わせることを容認したり、はっきりと「だめ」だと言っていないことは、一見この世と妥協しているように見えますが、逆説的な意味においては、それによって内側に抱える霊的な問題を表面化させ、取り扱い、霊的に成長させる助けとなるのです。
あれをしてはいけない、という教えによって霊的に過保護になるなら、その人の問題や葛藤が取り扱われ表面化されることは無く、束縛が小さいかわりに勝利も聖めも小さい信仰生活となってしまいます。
(34)
ですから、私の教えは行動を規則で縛らない「やさしい教え」のように見えますが、ある意味で、成長のためにリスクを覚悟したより厳しい教えです。過保護に扱うのではなく、本人が自分の行動を自分で決定した結果、隠された霊的な問題を表面化させ、その人の内側を取り扱うことにつながるからです。
(35)
ただ、霊的束縛が大きい人は、敵に隙を与えないためにも、グレーゾンのものであっても全てを避ける必要もあるでしょうからわからない場合は牧師かスタッフにご相談ください。