@−F−3−1/2 (ver.4  2016) 基礎の学び Fグループ 整えられる為に (第3) とりなし

祈りの本質は神との交流(会話、関係を持つ事)であることをAグループの学びの中で見てきました。祈りと一言で言っても、それには幅広い意味があります。今回は「とりなしの祈り」について特に見ていきます。
A
とりなしの祈りとは一般的な第一義的な定義は、誰かの救い、病気の癒し、生活の問題の解決、家族の問題、借金の問題、地域の変革、その他さまざまな問題の解決のために祈ることです。
B
とりなしという言葉自体は普通の日本語で、その意味は「仲介する」「間に立つ」「弁護する」です。
ですからクリスチャンがこの言葉を用いる場合は、「神と祈りの対象との間に立つ」「神に弁護する」祈りとして用いられます。「××さんが救われますように。」という祈りは神を知らず直接神に訴えることができない××さんに代わり、あなたが××さんと神の間に立って「彼女を滅ぼさないでください」と本人に代わって弁護するのです。そういった意味においては、クリスチャンにとっては日常的なものです。
C
そこで、ひとつ疑問が生じるかもしれません。(マタイ6章8節)には「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」と書いているからです。
神は既に私たちの必要や問題を知っているのにどうして祈らなければならないのでしょうか?
D
それはアダムの時代から、神は、人を神と地上との仲介者として任命しており、人の行動、そして祈りを通じて世界を、そして歴史を動かすことが神の最初からの計画だからです。
E
(創世記1:26 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。
F
神が人を作られた目的は、人がこの地上を神の代理人として治めることでした。神は所有権を人間には与えませんでしたが、統治の責任をまかせたのです。つまりアダムは地上人類最初の仲介者(とりなし手)でした。
G
にもかかわらず、アダムは神との契約を破ったために仲介者としての力を失ってしまいました。
H
もちろん神は全能なので一瞬にしてサタンを地上から追い出すこともできます。しかし、ローマ11章29節にあるように 「神の賜物と召命とは変わることがありません。」と書いているとおりであり、神の計画はあくまで人を通じてこの地を治めることなので、人が失った権威も人が取り戻すものなのです。
I
2)人となったイエスによる回復
しかし、それができるのは罪の呪いの下に無い人だけです。そんな人は誰もいません。ですから神が人となって来る必要があったのです。それがイエスキリストです。人としてこの地上を歩まれたイエスキリストはその死と復活によりサタンの頭を踏み砕きました。そしてこう宣言されたのです。
J
マタイ28:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。、、、、、見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
K
3)人に与えられた権威と役割
ですからイエスはアダムが失敗した人としての働きを回復させたのです。そのイエスがこういわれました。
L
(ヨハネの福音書20:21イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」20:22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」
M
ですから、今や私達がなしていく働きとは、アダムがなしえなかったこの地上を治めていく働きをイエスが再び取り戻してくださったので、その役割が分け与えられ、私達が担っていくのです。
具体的に言うなら、祈りによって神の力をこの地上に解き放つのです。
N
4)祈りで天の窓を開く
そのようなわけで、とりなしの祈りの為には人と神との間に太いパイプが必要です。すなわち天が開かれ、天と地がつながっていることです。それゆえ祈りの課題を効果的に主の前に持っていく為にはその通路が確保されている必要があります。
O
5)主の御顔をしたい求め礼拝すること
ですから、具体的な祈りをする以前の問題として、主の御顔を慕い求め、主の臨在を求め、礼拝することも大きな鍵となります。
P
6)神の御心にしたがって祈る
現在の私達と、アダムの時と違う事柄がひとつあります。アダムは神から直接支配権を受けており、禁断の実を食べる以外は、何をするのも自由でした。彼が動物につける名がそのようになったように、彼の行動のすべてが御心でした。
Q
しかし、現在、私たちはイエスの働きを分与されているわけであり、イエスという仲介者の下請けとしてその働きをしていくのです。ですから祈りの内容は御心に沿っている必要があります。
私たちは何に対してでも祈る自由がありますが、すべての祈りが御心ではありません。
R
私達は神の御心を探り、イエスが定められた枠の範囲内で祈るのです。そしてその祈りが聞かれるのです。そしてそれこそ「イエスキリストの名によって祈る」という意味です。
その言葉の本質は、神の御心にしたがって、イエスが仲介者として定めてくださった枠の範囲内の事柄に対して祈るという意味です。そして、その定められた枠の範囲内で祈る祈りは力強結果をもたらします。
 S
では、定められた範囲内の祈りしか効果的でないのなら、ある人は自分が持っている祈りや願いはイエスが定められた範囲内なのかどうか気になるところでしょう。
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ひとついえる事は、私達が想像する以上に御心の範囲は広いものです。病気が癒されるのは神の御心です。(マタイ8:3)家族が救われるのは御心です。(使徒16:31)いや全人類が救われることが神の望みなのです。(1テモテ2:4)私達が豊かになり栄える事は神の御心です。(創世記13:2)
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ですから、神の御心と計画を求めるのは良いことですが、これは求めすぎではないだろうかと考えすぎないことです。また、それと同時に神は人の願いを通じて、神の計画を推し進めることを願っています。
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■まとめ
私達は祈らねばならないのは、私達の祈りを通じて神が事を行ってくださるという方法を選ばれたからです。救われたばかりの人にとって祈りとは多くの場合、問題から抜け出すための自己中心的なものであるかもしれません。しかし、そのような祈りであったとしても、それは、仲介者としての役割を宣言している事なのです。
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ですから、私たちの願いも、ただ、願望としてを持つだけではなく、それを神への祈りという形で神の元に持っていかねばならないのです。持って行き方にもいろいろあります。「〜してください」「〜になりますように」という祈りをすることが多いかもしれませんが、イエスが定められた範囲内であるなら、私達の言葉にはそれを実現させる権威と力が与えられてるのですから、願望を口にする祈りではなく、
「〜になります!」「〜が癒されることを宣言する!」というように宣言する祈りをすることができるのです。
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■祈ることと、実際に動くこと
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(マタイ7:7求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。7:8 誰であれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
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この言葉には霊的な意味と実際的な意味の二つがあります。共通していることは、受け身な態度であってはならないということです。積極的に祈り求め、また祈りの答えを見るために積極的に動いていくのです。