@−F−4−1/3vwr.4基礎の学び Fグループ 整えられる為に (4) 導きを求める+預言を吟味

私たちには自由が与えられています。ある意味において、私たちがした決断が(たとえ最高の選択でなかったとしても)それを通じて、人生が作られます。
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ひとつの極端
ある人は、その日に着る服の種類やネクタイの色、料理の献立まで祈って決める人がいます。それは主へのまったき信頼を意味するものであり、その動機は良いものかもしれませんが「すでに私たちにゆだねられた事は自分自身で決断していくものである」とうい原則があるということも知っておく必要があります。
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(ポイント1)
神は私たちをロボットとして作ったのではなく、私たちの人生もあらかじめ定められてはいません。
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(ポイント2)
神は私たちの間違った過去や決断も益と変えることができる。
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時々、無茶な行動をして、結果的にうまくいって「私の行動は御心であった」という人がいますが、うまくいったからといってそれが御心や良い選択であったとは限りません。むしろ謙虚に「神がすべてを益としてくださった。」というべきです。例えば、元やくざのクリスチャンが効果的な伝道をしているからといって「昔彼らがやくざだったのは神の御心だった」という事はできないのです。
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でもこの事実は逆に私たちが罪や弱さのゆえに最高の選択ができなかったとしても、その中であっても神は道を開き助けを与えてくださる希望があることを意味します
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(ポイント3)良いものを選び取り神の御心を求める。
私たちはロボットではないし、神はすべてを益と変えて下さるからといって何でもしてもよいわけではありません。
神は一人一人の人生に最高のものを準備していますから良いものを選び取って行きたいものです。みなさんが神様に尻拭いをしていただくだけで、受けるべき祝福を受けとれず、生きるのが精一杯のクリスチャンであって欲しくありません。
人間的には良く見える決断であってもそれが良い決断とは限りません。信仰的な視点から見て敬虔そう、謙虚そうであってもそれが最高の決断とは限りません。ですから、その為に私達は主の導きを求めて、決断していく術を学ぶべきです。
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人生における大きな選択を迫られる事は何度か起こりますが、そこまでの大事でなくても日常生活の中で決断を迫られることはあります、その際の判断の基準を見ていきたいと思います。
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1)自分の現在の立場における常識
大学生が退学をして何か別のことを始めるとか夫婦が別居して何かをするというような導きは通常ありません。
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2)自分の願い
(ピリピ2:13神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。
神が私たちを導く主要な手段の一つはその人の心にそれをしたいという願いを与えることにあります。けれども(当たり前の話ですが)すべての願いは神が導いているとは限りませんし、自分がいやなことを神が導くこともあります。しかし神は私たちに感情を与えたのですから、自分の願いや好みというものも決断する上で大きな要素となります。
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3)心の妨げを知る
人の決断を左右する好みや苦手意識というものは多くの場合過去の経験によって形作られます。神は私たちを新しく創造されたのですから、過去のトラウマによって未来が妨げられてはなりません。
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4)両親、年長者のアドバイス
たとえ未信者の親であったとしても、時にはその言葉を通じて導きを与える場合があります。反対された時に「どうせ親はクリスチャンではない」という態度ではなく立ち止まって考えるのは良いことです。
私の二人目の娘の名前は別の名前をつける予定でしたが、私の両親の反対に会い予定を変えました。反対していた理由はあまり理性的な理由ではありませんでしたが、吟味しなおした結果、そのアドバイスを受け入れました。事実、今の名前のほうが私たちは気に入っています。
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5)霊的指導者のアドバイス
特に牧師はその人の霊的な見張り人です。その言葉に耳を傾ける事は大きな益となるでしょう。ただ、その人の霊的成熟度に応じて語ったり容認するので「いいよ」と言ったとしてもそれがあらゆる意味において良いわけではありません。もし、成熟を目指したいのなら、勧めや警告を受け取る準備があることを言い表して、さらに深いアドバイスを聞くと良いでしょう。
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6)必要な資源があるか
ルカの福音書14章28節に「塔を築こうとする人は建てる前に費用があるかを計算するべきだ。」とあります。神から確信を受け取り信仰によって行動するとしても自分に欠けているものが何か知るべきです。
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7)自分の霊的生活との釣り合い。
上の御言葉は金銭についての話だけではありません。「信仰によって行動する」のなら、それを支えるだけの霊的な土台、すなわち祈りや神との関係があるかどうかを調べて見るべきです。ただ「確認がある」といって飛び込むのはおろかです。もし、そのような預言を受けたとしても、その預言した人はあなたの霊的生活についてまでは知らないのですから。
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8)否定的状況が何かを分析
否定的状況があるからといって決断を取りやめる事はありませんがそれを分析し吟味するのは良いことです。たとえば健康上の問題があるのに過酷な働きをするのはよほどの確認が必要です。
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9)自分の動機は何かを分析
牧師や人を喜ばせるためであったり、罪責感や、心の傷から来る衝動は時には信仰的に見えますが正しい動機ではありません。(民数記14:40)で不従順だった民が罪責感によって主に従おうとしたときには、もうすでに遅し、その時点ではもう御心でなくなっておりました。
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10)平安があるかどうか
            心にある平安は確認のための大きな要素です。特に自分の感情の平安でなく、霊の確信によって与えられる平安に耳を傾けるべきです。サタンは私たちに不安を与えることができるのですから不安があるからといって、それをやめる理由にはなりません。
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11)情報を集める 情報不足から来る不安もあります。情報を集めることも助けとなるでしょう。
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12)状況、
年齢、地理、教育、健康、性別、行動の自由、経験、タイミング、必要、法律的問題、経済、その他
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13)聖書の言葉と聖霊が与える確信による
            神は直接あなたに語ることができます。それは御言葉を通じてであったり、啓示によります。
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確認としるしを求める
            しるしや不思議、奇跡によって確認がなければならないわけではありませんし、また、あったからといってそれだけで判断するべきではありません。それらはあくまでも確認のひとつとするべきです。
けれども、たとえ神の御心にしたがった決断をしたとしても、後に不安になったり恐れを持ったりすることもありますのでしるしや奇跡があるなら困難の中で励ましとなることでしょう。
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(付録)預言について
預言とは神様の言葉を預かるという意味で、未来を予告する予言とは異なります。ですから「わたしはあなたを愛している」という単純な語りかけを神から受け取る事も預言を受け取っているということです。
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預言の能力にはランクがあり少なくとも「(1)だれでもできるレベルの預言 (2)預言の霊による預言。(3)預言の賜物による預言 (4)預言者による預言」という4つのレベルがあります。
ただし、(1)〜(3)までのレベルの人は聖書がいうガイドラインの「人の徳を高め、慰め、勧める」言葉のレベルにとどまっているべきです。つまり、未来の出来事を予告したり、戒めを与える言葉を語るべきではありません。
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■預言者による預言
預言者は神が特別に立てた器であり、特別に預言的な能力が与えられており、時には他人が知りえない個人的な出来事までよく言い当てることが見られます。
ただ、旧約と新約では預言者の機能が違います。旧約は、Eメールを転送するように神の言葉を直接伝えましたが、新約時代では、預言者が自分の知性や感覚と照らし合わせたりして言葉を消化して伝えます。
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預言を受ける場合の注意点

  1. 吟味する、間違いもありえる

人間ですから間違える場合があります。預言者であっても完全ではありません。
(第1コリント14章29節)には吟味しなさいと書いています。
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  1. 時間・タイミング

預言の言葉の意味は、預言で語られたことが必ず成就するわけではありません。成就しなかったからといって預言者が間違えたとは限りません。
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  1. すべての預言には条件がともなっています。

出エジプト記19章5節のように、預言が成就する為には私たちが満たすべき必要条件というものがあります。自分のするべき分を果たしていないのに、成就しなかったり、成就したものの困難な目にあっても文句は言えません。
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  1. 良い部分だけを受け取らない

預言は基本的に徳を高めるために語られる言葉です。通常その人についての悪いことを言わないので、「自分は罪を犯しているのに何も言わない。これでいいんだ」とは思わないでください。
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  1. 録音すること

耳で聞いた言葉は自分で都合よく解釈してしまいがちです。客観的に判断できるように録音することをお勧めします。
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  1. 指導者(牧師)の判断を仰ぐこと

殆どの人はそうしませんが預言を録音して牧師や指導者に聞いてもらって吟味されるべきです。また、隠れてその預言を握り締めて、人に知られたくない。というのは健全ではありません。
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  1. 覆いの元でミニストリーを受ける

預言者がある教会に招かれてミニストリーを行う場合、その人がどれだけ有名な預言者や使徒であっても、あくまでもその一教会の牧師の覆いの下でミニストリーを行っています。ですから、預言者の言葉がその教会の牧師の言葉より権威があるわけではありません。
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  1. 預言者が会衆の前でその教会や牧師を批判することはありえない

個人預言を受けた結果、間違った解釈をして「やっぱり私の牧師は間違っていた」などと結論を出す人が昔いました。預言者が教会や牧師に対する批判を会衆にすることはありえません。必要なら預言者は直接牧師にそのことを話したはずです。ですからそのように解釈される解釈も間違いです。