JP−@−A0041/2 基礎の学び 2017年版(ver.5) Aグループ 神との関係 04 罪の悔い改め
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(ポイント)神との関係を妨げている事柄を取り除く(ここでは特に罪について)
他の人を赦すことについては、第2コース(B)の人との関係で取り扱いたいと思います。
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「救い」はキリストを信じたときに、即座に手に入れることができます。また過去に犯した罪、未来に犯す罪の全てが赦されます。あなたはこれからも罪を犯すかもしれませんが、今はもはや罪の奴隷ではありません。
A
神の目には過去の罪や過ちは全て帳消しになっている(ミカ書7:19)ので、それを思い起こす必要もないのですが、けれども、救われた後、必要に応じて時間をかけて過去の処理をしていくことをお勧めします。
それは、犯した罪をひとつづつ神の前に持っていくということ(具体的に言うなら、神の前に犯した罪を告白すること)です。
福音の本質から言ってこれをかならずしなければならないわけではないかもしれませんが、私たちの過去を逆手にとって責め立てるサタンがいる以上、自分の良心と敵との間に隙を作らないためにも、出来る限りの罪を神の前にさらけ出すことはあなたの信仰生活を有利にもっていくことでしょう。
B
1)すべての人は罪人である
以前にお話しましたが、罪とは心の性質です。みだらな思いを抱いても法律では裁かれませんが「情欲を伴い女性を見る人は姦淫の罪を犯している」と聖書が言っているように。神の目にはそれは罪なのです。
C
同様に、人をうらやんだり、競争心を持ったりすることも神に喜ばれることではありません。
そういう意味において、すべての人が何らかの罪と呼ばれる悪い心の性質を持っているということです。
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2)罪の悔い改め
その罪の鎖を断ち切る行為が「悔い改め」です。
悔い改めとは、単に過去にした出来事を思い出して、悲しむことではありません。
泥棒をしてつかまったある人がオイオイ泣いていました。それで、どうして泣いているのですか?とたずねたら、「逃げるときに、靴が脱げてしまったので早く逃げれなかった。くやしい」といいました。
これは後悔であって悔い改めではありません。
E
また、単に、悪い事をしていたのをやめるだけではありません。
他の人をいつもうらやみ、ねたんでいる人がある所にいました。ところが、ちょっとした宝くじが当たって、しばらくの間、懐があったかかったので、もう人をねたんだりしませんでした。
F
これは、妬むのを休んでいるだけで悔い改めではありません。心の悪い性質が取り除かれていないので、お金が無くなったら、また、人を妬んだり、うらやんだりすることでしょう。
「悔い改め」という言葉の意味は今まで進んでいた方向を変えて反対の方向に向かうことです。ですから今までしてきた悪い事を単にやめるだけではありません。
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3)方向転換と悔い改めの実
エペソ4:28盗んだ者は、今後、盗んではならない。むしろ、貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい。
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盗人がそれをやめるだけでなく与える人になる事は、その人の人生の方向が全く変わってしまったことを意味します。そのように、本当に悔い改めているのであるなら悔い改めの実を行動によって示すべきです。
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4)罪の告白
現代多くの人が精神的に病んでおり、罪責感、拒絶感を感じています。
その原因のひとつは、隠された罪や、汚れた思いが原因となっています。
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(詩篇32:3 私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。32:4 それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。セラ 32:5 私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。セラ
K
神に罪を告白するなら、赦しを受けることができます。しかしサタンはまだ赦されていないとかいって偽りを私たちに吹き込みます。サタンの名の意味は「訴える者」だからです。(黙示録12章10節)
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ゼカリア3:1) 主は私に、主の使いの前に立っている大祭司ヨシュアと、彼を訴えようとしてその右手に立っているサタンとを見せられた。・・・3:3 ヨシュアは、よごれた服を着て、御使いの前に立っていた。3:4 御使いは、自分の前に立っている者たちに答えてこう言った。「彼の汚れた服を脱がせよ。」そして彼はヨシュアに言った。「見よ。わたしはあなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう。」
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5)解放とコミュニティー
中世までは、人々は神と直接関係を持つことができず、罪の告白も、祭司に向かってしなければ有効ではないと教えられていましたがその考え方は正しくありません。
クリスチャンは万人祭司であり、「すべての人が直接神様と関係を持ち、彼に向かって告白するなら、罪の赦しを受けることが出来る」ということは中世の宗教的束縛から人々を自由にした真理です。
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けれども「まったく他のクリスチャンや牧師の助けを必要としない」「誰かに自分の弱さや罪を伝える必要は無いと言うなら、それは別の意味での極端になってしまいます。
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基本的に、罪の告白は神に対してするものですが、それにもかかわらず、何度も、神に祈り告白しているのに、その罪の誘惑から解放されなかったり罪の赦しの確信がないのであるなら、それは神が与えた方法をすべて用いていないということです。それについて見ていきましょう。
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聖書には次のように書いています。
(ヤコブ5:16ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。
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聖書がこういっているように神との関係だけでは、十分に癒されない場合であっても、人との関係を通じて完全な解放がなされていくのです。
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なぜなら、神の計画は人が個人だけで直接神とつながることだけでなくコミュニティーを通じてつながることだからです。(参考:第1ヨハネ1:7)
人は神の要求する高い基準である「律法」を全うすることはできません。しかし、そんな弱い私たちのために神は「霊の律法」「キリストの律法」を制定されました。これはキリストの十字架により開かれた道ですが、それを適応する方法は、私たちがコミュニティーの中にとどまること、すなわち互いに重荷を負いあうことにあるのです。
(ガラテア6:2互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい
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このコミュニティーを通じての癒しというのは、過去の悪い経験、トラウマ、悪霊との間違った契約、人を赦していないことから来る束縛などといった事柄からの解放のために効果的です。
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また、中毒、依存症といった事柄から解放されるのに有効なことは、問題に光に当てる事(他の人に告げて祈りあうこと)です。何か思い当たるふしがある人はセルリーダー、教会のスタッフや牧師に相談してください。
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キリストの律法を全うさせる。
キリストの律法とは本質的に神が人に要求している事柄です。誰も、それを守りきることはできませんが、神の定めは「互いに重荷を合いあうこと」=「コミュニティーの中にとどまること」を通じてそれが出来ると語っているのです。
ですから、私たちはお互いにお互いを必要としているのです。