JP−@−B11/2 基礎の学び 2020年版(ver.7) B 人との関係 (01) はじめに・心の傷の癒し
■・■ 20/10/18


■過去の傷を取り扱うこと
人との関係を妨げるものは一体何でしょうか。 「拒絶感」「恐れ」「」といったものの為に、人に近づいたり、心を開いて自分の事を話すことを、しばしば人は恐れます。そういった気持ちどこから来たのでしょうか。
実は、多くの場合、それは、その目の前にいる人との問題というより、それ以前に、受けた過去の傷から来るのです。
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もちろん、神様の癒しの力は完全なものなので、神様はあなたを癒すことができます。
イザヤ書61章1節に、キリストがこの地に来られた理由として「心のへりくだった人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため」キリストはこの地に遣わされたとある通りです。
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ところが、神様の元に行けば癒しを受けれるのに、心の傷がある為に神様に近づき、心を開き癒しを受け取ることが妨げられてしまうのです。  それはたとえば、「神様は私に関心を持っていない」と考えたり、その他の間違った偽りの思いをいだくことによっておこることがあるのです。
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また、(これについては後で説明しますが)癒しの道具である教会の兄弟姉妹との交わりが妨げられてしまいます。
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そのような状態の場合には、ただ、教会に集い、賛美しメッセージを聞くだけで解放されるとは限りません。
多くの場合、何らかの心の癒しの為の過程を通る必要があるのです。
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ですから、このBコースでは「人との関係」というテーマに基づいて、Aコースに引き続き、私たちが神様によって整えられたものになるためのディスカッションの題材を与えていきますが、それ以前に(マタイ13章1節〜8節)にあるように良い種を植えるために心を耕すことから始めたいと思います。
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■ 良い始まり
神が人を創造されるときに「われわれに似るように人を造ろう」(創世記1:26)と言われました。神は父なる神、子なる神(キリスト)、聖霊の三つでひとつですが、通常複数形で自分を表わされません。でも人を創造されるときだけ特別に、このように言われました。それは神は互いに愛し合い交わりを持たれる神であることを示されるためでした。それゆえ人も互いに関係を持つべきであり、孤立していてはいけません。
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イエスキリストを信じた人たちは神の家族です。神が真の父なのですから、私たちは老いも若きも神の子供です。すなわち父なる神にあって私たちは「兄弟」であり「姉妹」なのです。
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神の家族である教会は、自分が楽しむだけのサークルやクラブのようなものではありません。また、この世と隔絶した独善的、排他的集団でもありません。神が私たちを集められたのは、神の手として、足として、この世によい影響を与えるために、また、サタンや悪霊たちに対抗する神の国の大使館としての役割があるのです。
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(エペソ3:9-11) また、万物を創造された神の中に世々隠されていた奥義を実行に移す務めが何であるかを明らかにするためにほかなりません。これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、私たちの主キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画に沿ったことです。
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神の計画を知るなら、サタンの計画も明白です。彼はいつも神の計画を台無しにしようとしています。すなわち、あらゆる人間関係に分断と混乱を与えて、一致させないようにしているのです。
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ですから、他の人に対して過敏な恐れを持ったり、自分の反応が普通ではないと感じるようなことがあるなら、それは、目の前にいる人が問題というより、何か隠された問題が原因であることに気が付くきっかけと言えるでしょう。
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「教会に来てから、問題が表れてくるようになった」という声もたまに耳にします。その理由の一つは、神があなたの心の深い部分に癒しをもたらすための心の手術に着手したからかもしれません。
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その神様の癒しの為に神様は人間を用いられるのです。                                                                                        <15>
(ヨハネ11:43-44) そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」
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これはキリストが死んだラザロをよみがえらせる場面です。ラザロのよみがえりは私たちの魂がキリストを信じて救われる事の象徴的です。ラザロは死んで3日たち体も腐っていましたが、キリストは神の力と権威で彼を一瞬に蘇らせました。同様に私たちも、死んだような人生を歩んでいても、キリストを信じることにより一瞬にして救われることができるのです。
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しかし、自動的にすべてが、新しくなるわけではありません。ラザロは確かに蘇りましたが、彼の体は包帯が巻かれておりました。イエスは彼がそのままの状態であることを望んでおりません。だからといって、キリスト自身が包帯を解いたわけではありません。イエスは周りにいた人たちに解くように指示しました。
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これは私たちの人生にもいえることです。イエスを主と信じ救われても、それですべての傷が癒され、過去ののろいや束縛から自動的に解放されるとは限りません。
多くの場合、それらはひとつづつ解かれなければなりません。もちろん癒しは神が与えるものですが、ラザロの解放に周りの人が用いられたように、人との関係が癒しをもたらす道具となるのです。
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ところが、癒しの道具といっても、時にはあまりかっこいい役割ではありません。
第一番目の用いられ方は、もしかしたら、ぶつかり合うことによって問題の所在を知らせるセンサーとしての道具だからです。レントゲンやCTスキャンのように、人間関係のストレスは問題を抱えた心の部位を特定する道具となります。
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たとえば、多くの結婚生活で起こるかなり多くの問題を引き起こしたり物事を複雑にしてしまう原因は、目の前の伴侶というよりは、過去から引きずっている癒されていない心の傷なのです。
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ですから、これは大切な点です。人(特に教会のメンバー)との人間関係に問題があるときに、(確かにその相手の人に問題があったり、相手の人が弱さを抱えていることも多いでしょうが)関係を絶ったり、引きこもることによって問題にふたをしただけでは何の解決にもなりません。
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■癒しのステップ
人の役割は単なるセンサーではありません。人によって傷つけられた傷は、人を通じて働く神様の働きによって癒されていくからです。
ここで、癒しのステップのすべてを書き出すことはできませんが、ポイントだけを書きます。
最初のステップは、自分の問題に、過去の傷、特に親子の関係の中で受けた傷があることに気が付くことです。
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しかし、多くの人は、それに気が付きません。そういった場合、自分の中に、もやもやする闇があることを感じながら、原因がわからないことに困惑することでしょう。ですから、その対処のために、さらにその前のステップゼロがあります。
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それは、「傾聴」というか、その人の話を聞いてあげることです。
傾聴というと大げさなことに聞こえますが、相手を愛し、その言葉に耳を傾けることです。それそのものが、自分の心が整理されるきかっけとなることでしょう。
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その癒しの過程をスムーズに実現するために教会の中に必要なのは弱さを受け入れあう雰囲気が必要です。愛と一致の雰囲気があるなら、そこに神の霊が働きます。なぜなら、それこそ神の御性質だからです。それによって、教会という人が集まる場は、人が癒されるための神の道具となるのです。
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また、信仰歴の長い人、リーダ的立場の人たちこそ、自分の弱さや葛藤、そして失敗を分かち合うべきです。それによって周りの人たちは「こんな私でも受け入れられるんだ」と安心感を持ち、心を分かち合うことができるからです。
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(注意) だからといって「弱さを受け入れあう」「本音を出すのが大切だ」と称して人の悪口、批判を言ってよいわけではありません。時々教会の中で見られる間違いは社会では許されないような失礼な態度をとる人がいることです。