JP – @ – B– 005– 1/2  2020年版(ver.7) 基礎の学び Bグループ 人との関係(5)キリストの体としての教会
■・■ -20/03/24


(エペソ1:22-23 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。1:23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。
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この言葉の意味の全てを理解できないかもしれませんが、ただ知って欲しいことは教会にはとても大きな使命と霊的な権威が与えられているということです。
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教会とは建物のことではなく、信者の集まりを意味しています。ですから、実際的に、その働きを実現されるのに、神が用いられるのは普通の人たちです。
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何か特別な能力を持った人によって、大きな働きがなされるというわけではありません。大きな大木が育つのに必要なことは、特別なことではないのと同様です。ただ、良い土地に、適度な日光と気温、そして水があれば、それだけで自然に成長します。「木」そのものに、成長する力があるからです。
同様に、私達の信仰も、そして教会も適切なものが適度に備わっているなら、自然と成長し、力強い働きをすることができます。
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でも、忘れてはならないのは、害虫から守られることですね。害虫とは、これまで語ってきた過去の罪や心の傷を取り扱うことを意味します。
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エペソ2:21-22) この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、2:22 このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。
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この聖書の言葉にあるように、教会は、普通の人々が一致し組み合わされることによって立て上げられます。そこに愛と一致と謙遜の雰囲気があるなら、すなわちそれは神の御性質なので、神の霊が豊かに働きます。
つまり、教会に霊的な力があるのは「御霊によって神の御住まいとなる」からです。もちろん、メンバー一人ひとりの成熟さや献身というのも大切な要素ですが、すばらしいクリスチャンの集まりになればそれでよいというわけではありません。
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大切なことは、たとえ一人ひとりは不完全でも、一致し神が働く余地を与えていくことにあります。
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■ 私達は互いを必要としています。
(1コリント12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。
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私には頭脳がありますが手が無ければ自分の体のかゆいところを掻くことすらできません。同様にキリストは教会のかしらであり、神は全能ですが、その御計画を地上で行うためには一人一人のクリスチャンを必要としているのです。すなわち神は、その教会の器官の一部である、あなたを必要としています。
全能の神が不完全な人の集まりにご自身の権威と力をゆだねられたとは驚くべきことです。
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聖書には教会の一人一人の存在を体の器官にたとえて「たとえ目立たない存在であってもすべての人が必要とされている」と語っています。
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1コリント12:14-25 確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。12:15 たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。12:16 たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。12:17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。12:18 しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。(中略)
12:21 そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。12:22 それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。
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体の中に虫垂(いわゆる盲腸)と呼ばれる小さな器官が在り、以前は何の役にもたたない上に炎症を起こすと虫垂炎になるので不要な器官だと考えられておりました。しかし今では虫垂にはリンパ組織が豊富にあり、扁桃腺のように免疫に関係していることがわかっています。
そのように、この聖書の言葉にあるように、教会の中には不要な人はいません。
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霊的に、あるいは精神的に弱い人がいたとしても、その人に対する気遣いをするとき、すなわち互いにいたわりあう雰囲気の中で神の愛が流れていくのです。また、たとえ、霊的に悪い雰囲気をもたらす人であったとしても、その人がいなくなれば問題が解決するわけではありません。逆に、むしろ、その人が悔い改め作り変えられるなら、普通の人が普通に集っている以上に良い雰囲気と霊的突破を与えることになるのです。
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人にはそれぞれ特性がありそれには良い面と悪い面があります。「神の義に熱心な人」は正しいことを優先するあまり、愛がない振る舞いをしがちです。「哀れみ深い人」は弱い立場の人を思いやり人を励ますのですが、その反面罪に対して甘かったり、人間的な調和を大切にしすぎて神の計画を無視してしまう危険があります。
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哀れみの心をもったモーセは民数記12章で罪を犯したミリアムに対する懲らしめが「厳しすぎる」と主に訴えましたが、主はモーセに「人間的な考えで、懲らしめを軽減してはならない」といわれたのです。
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「穏やかな人」は人当たりが良く良い雰囲気をもたらすのですが、力強いリーダーシップを発揮することができず優柔不断かもしれません。その反対に「情熱的な人」は力強いリーダーであっても、細かいことに目が入らないので人を傷つけてしまうかも知れません。
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私達は人の性格や特性を見て良いとか悪いとか言いますが、それらは神が与えたものであって全てよいものです。私達は自分についてであれ、他人についてであれ、それを受け入れなければなりません。すべての特性には良い面と悪い面があるので、大切なことはその特性(性格)の長所と短所を把握して、互いに寛容になり、自分の心を見張り、互いを尊重し合い、互いに仕えていくことです。
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教会は人間の集まりなので、完全な存在ではありません。すべての教会に欠けた部分があります。その欠けた部分を満たすのは「欠けている部分に気がついた」あなたかもしれません。ですからそれぞれの人の個性や特性を生かすには仕える心が必要です。仕える心を持っていなければ、「あれが足りない、あの人はこんなことをしてくれない」といって不満を言っているだけでは何も変わらないかもしれません。
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一人一人が調和をもって動き出して初めて、教会が機能するということを知らなければなりません。
実際私達すべての人は他の人に仕えるように造られているのです。そしてまた、必要な事柄は一致であり、他の人を自分より優れた存在であると思う心です。批判的であってはなりません。
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(ローマ12:10 兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。
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教会が立て上げられるのに必要なことは互いに愛し合うことです。しかし、サタンは微妙な形で「憎しむ」「競争する」「ねたむ」を入れようとします。人類最初の殺人事件は兄弟に対する妬みが原因でした (創世記4:8)
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それゆえ、第一の戒めの「神を愛すること」に次いで神が与えた命令は「隣人を愛すること」だったのです。
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マタイ22:37 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 22:38 これがたいせつな第一の戒めです。22:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。22:40 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
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身近な兄弟姉妹を愛することは、神の最高の命令を守り行うことなのです。(ローマ13章8節〜10節)