JP−@−C−001基礎の学び 2020年版(ver.7) C クリスチャン生活の基礎(2)聖書の言葉
■・■−1/2 20/02/20
世の教えでは絶対的な基準など存在しないと言いますが、それは神を抜きにした人間中心の価値観でしかありません。絶対的な基準は無いという主張は究極的には絶対的な存在(神)は存在しないという考えです。神がいなければ、罪を犯しても裁く存在もないわけで、これは、人の心の中の罪の性質から生まれたものなのです。
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聖書の言葉は、私達が信頼することができる、変わることがない真実の言葉です。
聖書を信じない人は今から100年前にもたくさんいました。けれどもこの100年の科学や学問の進化によって、聖書の言葉が新たに間違いだとわかった箇所は、一つもないのです。
考古学的発掘の進歩と共に聖書の言葉が確かにされてきました。今ではノアの箱舟さえも発見されています。
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ダーウィンの進化論が提唱されて150年以上たちますが、古生物の研究が進めば進むほど、結論は進化論を否定しております。当時は科学が発達しておらず、命がいかに複雑かわかっていなかったのです。
人にたとえて説明するなら、聖書の言葉は、自分の常識では疑わしく見えても100年付き合った結果まったく信頼できる友達であるといえます。
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私が聖書を信じるのは3つの根拠があります。
聖書の黙示録には「統一政府、統一通貨」などの社会情勢について書いてあります。(黙示録13章)
地震が増えることについて書いてます(マタイ24章)が、ある調査では1900年と比較して、2000% 地震が増えております。(199年M6以上の地震は3回、2000年は160回です。)
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■聖書は「旧約聖書」と「新約聖書」の二つに分かれており合わせて66巻あります。それら2つは独立して存在するものではなく、連続したものです。書かれている内容を一言で言うなら、人類救済における神のご計画のロードマップと言うことが出来ます。
すなわち、(1)世界がどのようにして作られたか、(2)人類にどのようにして罪が入ったのか、(3)神がアブラハムという人を選んでその子孫(イスラエルの民)を祭司の国民とすることにされたこと。(4)以後、イスラエルの民の隆盛を伴った歴史を人類救済のパターンの雛形とされた事について書いてあります。(5)クリスチャンとしてどのようにして成長していくか。(6)イエスキリストについて。(7)そしてこの世の終わりの出来事と、永遠に続く未来について書かれています。
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(4)をわかりやすく説明するなら、イスラエルの民がエジプトで奴隷状態だったのを主が解放し、約束の地に招きいれたことは今日、この世の圧迫から神がわれわれを救い出されることをあらわしています。
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(5)の解説として、たとえば旧約聖書でイスラエルの民と異民族の戦いの記述を通じて、今日、悪霊との霊的戦いのパターンを学ぶことが出来ます。ですから、旧約聖書に書かれた戦いは、そのパターンを霊的戦いの雛形として学ぶために許された事であって、今日、異民族を武力で制圧しても良いという意味ではありません。
ですから、旧約聖書で大勢の人が殺されますが、どうかつまずかないでください。
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(6)ヨハネ5:39にあるように聖書の目的は隠喩的なものも含めて全てイエスキリストを紹介する為です。
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■聖書は誰が書いたのでしょうか?
「大阪城を造った人は誰だ」と聞かれて「大工さん」と答えるのはひねくれた人です。同様に、聖書は人によって書かれましたが、好き勝手なことを書いたのではなく「神からの霊感を受けて」書きました。創世記から黙示録までを書き終わるのに千数百年かかっていますが、内容には驚く程の一致があり、驚くべきことです。
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神の言葉がどのようなものかを書き出しますが、大切な事は、ここに書かれている項目を体験することです。
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(マタイ77:24-25)・・・雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
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聖書の言葉により守られるとは言葉の呪文的な力ではなく、それを心に留めて、守り行う事によるのです。
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(2テモテ3:15)・聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせる。
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■聖書にはこれらのほかにも大きな力を秘めています。ですから、私達は日々の生活の中で聖書の言葉に慣れ親しむことが大切です。毎日、少なくとも決まった量の章を読み続けることをお勧めします。
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多くの人が聖書を読み続けることに抵抗を感じているのは、多くの場合、そこから励ましや愛を受け取れないことにあります。そしてそれは、神に対する基本的なイメージが邪魔するのです。
ですから聖書を楽しむ読み続けるための前提は、間違った先入観で読まないことです。そのためには、先の学びで語ってきた個人的な解放や、心の癒しを受け取っていることが必要です。