JP−@−C004 基礎の学び 2020年版(ver.7) C クリスチャン生活の基礎(4)キリストを体験する 
■・■1/2 - 21/01/13


この学びをされている方の多くはイエス様を心に受け入れた経験がある人であったり、教会に集っている方であると思います。しかし、だからと言って、すべての人が十分キリストご自身を体験しているわけではないと思います。私たちはどのようにしてキリストと人格的に交わり、彼を体験できるのでしょうか。
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■キリストを体験する方法。
(1)内側から変えられるという変化によって
あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。 (第1ペテロ1:8〜9)
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この御言葉にあるように、魂の救いを体験するときに、キリストを見たわけではないのに、生身のキリストに出会ったかのような印象を持つことができるのです。
教会に集い始めた多くの人が体験していることは、気が付いたらむなしさがなくなった、気が付いたら自分を愛せるようになった、などという内側の変化です。この変化は何か特別な集会に出て特別な体験をしたから体験するものではありません。魂の救いを経験した結果なのです。
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しかし、そのような恵みの体験は、ただ教会に集っているだけで与えられるとは限りません。というのも、これまでA,Bの両コースで学んだように私たちの罪や、心の傷やその他さまざまな妨げがあるからです。
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つまり、内側が変えられるという過程はしばしば心の癒しという過程を通ることによって与えられます。
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(2)共同体(教会)を通じて
1ヨハネ4:12 いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです
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信者が互いに愛し合うことによって、完全なる神の愛が啓示されるのです。
ですから、教会に集うことは大切なのです。神様は一匹オオカミのクリスチャンを求めてはおりません。
ガラテア 6章2節の「互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。」という言葉にあるように、共同体の中であらゆる神の良い原則が成就されるのです。 
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とはいえ、心の中に妨げがある人は、共同体を通じて受け取るべき愛を受け取り損ねることもあるのです。
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(3)クリスチャンの愛を通じて
上記の、共同体を通じて与える愛との違いは、それは、時には大した犠牲を払わずとも、そこにいるだけで、私たちは与える側になれることも多いでしょう。しかし、時には、個人的に、自分の心に与えられた願いや、神様に導かれることによって、特別に誰かに愛をあらわすことができます。それは犠牲を伴う事もありますが、その行動は大きな変革をもたらすことでしょう。
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(4)悔い改めによって
悔い改めはキリストを体験する上で重要ですが、A-4で学びましたので、繰り返しませんが、これは神様と私たちの間の壁を打ち砕くだけでなく、これによって以下の(5)(6)かの変化を私たちにもたらします。
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(5)自我が砕かれる
悔い改めによってもたらされものの一つが自我が砕かれる事です。自分のやり方を変えようとせず、自己中心であるなら、受け取れるものも受け取れません。自分の心の王座に座るべき人は自分ではなくキリストです。
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(6)光の中を歩む(闇の中を歩まない)事によって
(第1ヨハネの手紙1章6節〜8節)1:6 もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。1:7 もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。1:8 もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。
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闇の中を歩むことは、その行為そのものが悪いというだけでなく、上記の1〜5の事柄とも関係があります。
というのも、(1)それによって交わりが妨げられるからです。(2)それは真の悔い改めではなく、自我が砕かれていないのです。(3)また、キリストの血が適応されないので、罪の赦しの実感が持てません。
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(7)御言葉を通じて
ヨハネ1章1節の 「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」といいう言葉があるように、キリストご自身が神の御言葉なのです。
ですから、聖書の言葉を読み、心に蓄え、思いめぐらす中でキリストを体験できるのです。なぜなら、聖書の言葉はすべて神の霊感によって書かれたものだからです。
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聖書はただの印刷された紙です。しかし、私たちはそれぞれが神の霊である聖霊を持っているので、その聖霊によって聖書を読むときに、それはあたかも著者を呼び出して本の解説をしていただくようなものなので、心に染み入ることができるのです。
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ですから、御言葉を思いめぐらしましょう。一番簡単な方法は、寝る前に御言葉を読むか思い出してそれを思いめぐらすのです。一節丸ごとである必要はありません。たとえば「主は私の羊飼い私は乏しいことはありません」という言葉がありますが、そのたった一言であっても、その風景を思い浮かべて、慈愛に満ちた親が子供をいつくしむさま、そして神がすべてを満たし、励ましてくださる様を思い浮かべることもできるのです。
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(8)十字架を思い巡らす
キリストの十字架は神の愛の表現の最高潮なのです。
(ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである
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(9)聖霊に満たされる
(ローマ5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
この御言葉にあるように、神の愛は聖霊によって啓示されるので、聖霊に働いていただく必要があります。
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しかし、注意が必要です。聖霊派の教会では、聖霊に満たされる体験をすること、神様の臨在に触れる(神様がそばにいる事をリアルに感じる体験)ことをしばしば重んじます。
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確かにそれは、とても良いきかっけとなるでしょうが、体験的、感覚的なものだけではいけません。
それは結婚に導かれている異性にときめくようなもので、それは必要なものであり、結婚に至るための大きな動機となり決断を後押ししますが、結婚生活がときめきだけで成り立っているわけではないのと同様です。
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聖霊体験は、あたかも乾いた地で水を飲むようにあなたの霊を潤すことでしょう。しかし、時間がたつとまた霊的に渇いてしまいます。それでは何が必要なのでしょうか?
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それは、ヨハネ4章14節に 「しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」とあるように、内側に聖霊の泉の元であるキリストを住まわせることです。
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キリストを住まわせる方法は(1)〜(8)で説明したような、感覚的なものではなく、地に足を付けた歩みによってなされるのです。聖霊が住むことと、キリストが住むことの違いは何でしょうか。聖書に明確には書いておらず、どちらも同じとも言えます。 しかし、あえて言うなら、聖霊が住むとは「婚約指輪をいただくこと (エペソ1:14)」であり、キリストが住むとは「結婚生活をすること」に例えれるかもしれません。