JP−@−C004 基礎の学び 2017年版(ver.5) C クリスチャン生活の基礎(4)キリストを体験する 
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(使徒4:31-33)4:31 彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。4:32 信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。4:33 使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。
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使徒の働きを読むなら現在のクリスチャン生活と比べものにならないほどに数々の奇跡と、神の恵みが大きいことがわかります。その秘訣を一言では言えませんが、パウロが語った「神の恵みによって、私は今の私になることができた」という言葉はヒントになります。私たちは日々の生活の中で恵みがとき放たれ、恵みを体験しなければなりません。その恵みはどのようにしてもたらされるのでしょうか?
B
イエスの復活を力強く証していたという記述に注目してください。裁判で自信を持って証言をすることができるのは目撃者だけです。彼らの全てが復活を見たわけではないのにどうしてでしょうか。それは彼らがイエスを体験していたからです。それによって神の力と恵みが表されていたのです。
C
■キリストを体験する方法

  1. クリスチャンの愛を通じて

使徒4章32節に書いているように、信じた者たちは共同体として心と思いを一つにしていました。互いに助け合い、足りないものを補い合っていました。
初期のキリスト教会は共産主義的な共同体であったようです。後に、パウロが「働きたくないものは食べるな」(2テサロニケ3:10と叱責したように、人の罪の性質や肉の弱さのゆえに、そういったシステムは長くは続きませんでしたが、その本質が変わってしまったわけではありません。たしかに互いに愛し合い、支えあうことにより彼らはキリストを体験していたのです。
D

  1. 花婿なるキリストを体験する

これまで、人と神との関係を親子の関係にたとえて紹介してきました。しかし、さらに深い親密なレベルが存在します。教会はキリストの花嫁であると聖書は告げています。
夫婦は、彼らの子供ですら割り込むことができないほどの超親密な関係を持ちます。神の子供とされるだけでも、すばらしい関係なのに、キリストの花嫁というさらに超親密な関係に私たちは招きいれられたのです。ですから、私たちはその特権を生かすべきです。
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(雅歌1:13 私の愛する方は、私にとっては、この乳房の間に宿る没薬の袋のようです。
雅歌は性愛の歌です。多くの人はどうしてこのような詩が聖書に載っているの理解できません。この書が正典に加えられたのは、神との間にラブロマンスを持つことが出来ることを教えるためです。
どのような仲のいい夫婦であっても、二人だけで超親密な時を過ごさねば、子供を産み出すことはできません。同様に、私たちも、霊的に何かを生み出すためには、奥まった部屋で神と超親密な時を持つ必要があるのです。                                       F
(マタイ6:6あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。(中略)
(注意:)神との関係は夫婦にたとえられていますが、その関係は決して性的なものではありません。
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  1. 共同体(教会)に属する

(ヨハネ15:5) わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。・・・・
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私達が実を結ぶためにはキリストにつながらなければなりませんが、ある人達は自分ひとりがキリストにつながっていたら十分だと考えています。でもそれは間違いです。どのような果物でも木の幹から直接実がなることはありません。幹につながった枝が実を結ぶのです。イエスは「あなた方(複数形)は枝です」といいました。あなた方という複数形の言葉は信者の集まりである共同体(教会)を意味しています。
D
これまで見てきたように、教会という集まりの中で、交わり、祈り合い、重荷を負い合い、共に笑い、共に泣き、また時にはぶつかり合う事によって変えられ、聖められ、キリストを体験していくのです。ですから一匹狼のクリスチャンなどはありえません。
I
(マタイ18:20) 二人でも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。
確かに聖霊は私たちの内に住んでいますが、それだけでは十分ではありません。信者が集まるところにキリスト自身がやって来られると書いています。これは深くキリストを体験することを意味します。
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■共同体の中でキリストの律法が全うされます。
(ガラテア6:2 互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。
K
キリストの律法とは、表面的な規則ではなく律法が言わんとしている命の原則ですが、だからといってひとりでどれだけがんばってもそれを達成することはできないことでしょう。しかし、互いに重荷を負い合う事実によって「キリストの律法をまっとうできるのです。」
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第1ヨハネ1章7節の「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」という言葉にあるように、表面的につくろう人間関係でなく、「互いに交わりを保つ」ことと、重荷を負いあうことによってキリストの律法が全うされ罪からきよめられるのです。それが共同体の力です。その時にキリストを体験するのです。
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(1ヨハネ4:12 いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです
信者が互いに愛し合うことによって、完全なる神の愛が啓示されるのです。
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  1. 飢え渇きを持つ

(使徒4:29-30主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。4:30 御手を伸ばしていやしを行なわせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行なわせてください。
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  1. 十字架を思い巡らす

キリストの十字架は神の愛の表現の最高潮なのです。
(ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである
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十字架についての聖書の言葉を思い巡らすことが大切です。またそれだけでなく、自分がどのような所から救われたかを思い出すことでもあります。キリストの犠牲にゆえに今の自分があることを知ることが大切です。
(ガラテア3:1 ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。
Q

  1. 聖霊に満たされる

上の「はっきり示された」という言葉の意味は「啓示された」です。神の愛は聖霊によって啓示されるので、聖霊に働いていただく必要があります。
(ローマ5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
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キリストの昇天後私達が孤児とならないように送られたのが聖霊です。(ヨハネ14:18ですから、聖霊を体験することはキリストを体験するのです。
S
個人的に神との関係を持つだけではなく、私達は使徒的な覆いの中で、賛美、礼拝、預言的な祈りや御言葉を通じて、神と出会う必要があります。札幌クリスチャングループでは水曜の夜に、祈り会を持っています。この時間は、お願い事を神に並べるときではなく一人一人がキリストを体験するときなのです。