JP−@−C006 基礎の学び 2017年版(ver.5) C クリスチャン生活の基礎(6) 洗礼
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洗礼は、全身を水に浸ける行為によってイエスに従って生きる決心した人が信仰の表明を公にする為のものです。
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「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。」(マルコ16:16)
この言葉を根拠に、洗礼を受けねば救われないので、子供がすぐに死んでしまっても天国で会えるように幼児洗礼を施す教会がありますが、聖書には「信じて」と書いている以上、信仰を持っていない人に授けても意味はありません。
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別の極端は(ルカ23:43)でイエスが十字架の上で悔い改めた強盗(洗礼を受けなかった人)に「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と救いを宣言したので信じてさえいればよい。洗礼は重要でないという考え方です。
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両極端な考え方の背景は「救いとはプロセスである」ことを理解していないからです。「信仰によって救われる」ことは事実であり、救いの確証として神は私達に聖霊を与えました。まだ洗礼を受けていない人にも神は豊かに働き、人生を作り変え、平安を与えているのを見るときに、本当にその人は救われていると実感します。だからといってそれだけで良いわけではありません。イエスは私達の見本となるために、その働きに先立って、洗礼を受けました。私達の模範となるためです。ですから、信じてはいても洗礼を受けないのは、その信仰が正しい方向に向かっていないことを意味します。
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(ピリピ2:12)恐れおののいて自分の救いを達成してください。
自分の救いを達成するとは、与えられた課題をこなすことです。もしするべきことに消極的であるなら、信仰生活の他の事柄についても消極的でしょう。それは、神があなたの人生に持っている大きな計画に対して無関心だということです。
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ですから信じているのに洗礼を受けない人がいるとしたら、その原因に目を留めて解決されるべきです。そうでなければ外側を繕う信仰は外見さえ良ければよいという間違った信仰の姿勢を生み出してしまいます。
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洗礼というのは「唯一の公式な信仰の表明」方法です。ですからイスラム教国等では、たとえイエスを信じることに寛容であっても、洗礼を受けると迫害で命の危険にさらされるのです。
日本で良く見られる家の宗教システムは先祖の宗派さえ尊重すれれば何を信じてもかまわないといったものです。
その枠の中でキリストを信じる分には反対されないことも多いのですが、洗礼を受ける事にはより強い抵抗がよく見られます。なぜなら、キリストを信じる事は心の内側の問題ですが、洗礼を受ける事は公に信仰を表明することだからです。
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私達の信仰の表明である洗礼を受ける時に3つの存在が私達を見ています。
1) 神様および天の御使い:
(ア) 私達が公に信仰を告白するときに天で喜びがあふれます。
(エペソ1:3)・・神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
(ルカ15:7) ・・ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にある。
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2)教会:神の家族として、公の信仰告白を共に喜びます。
今まで見てきたように、神と関わりを持つとは、神の家族の中でなされていくことです。つまり神の共同体の中に招き入れられたことを意味します。それゆえ洗礼式は結婚式のようなものといえます。
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3)悪魔:洗礼を通じて公に彼の支配から出た事を宣言します。
(1ヨハネ5:19) 私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。救われる以前は、私達はみな悪魔の支配下にありました。車を手放しても名義変更をしなければいつまでも税金の請求がやってくるように。古い自分の住所変更手続きをしなければ古い性質の束縛を受け続けます。
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■ 洗礼を受けるために必要な条件
1)信仰を持っていること :誰でも信仰を持つことは出来ます。しかしその程度には差があります。救われた当初から完全な信仰を持っている人はいませんし、事実私たちのだれも完全な信仰を持っているとはいえないでしょう。
ですから、こうでなければならないという厳密な基準はありませんが、以下のような要件はあることでしょう。
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2)弟子となるという方向性
(マタイ28:19)において 「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、、」と書いています。したがって洗礼を受けるための条件は、「キリストの弟子となる」という人生の方向性を持っている事です。それは、クリスチャンとして完全でなければならないという意味ではありません。学びたい、イエスに従いたいという姿勢であり、方向性の問題です。
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3) クリスチャンとしての生活の標準がどういうものかについての理解
ただ教会に来ているだけではわかりにくいものがありますがクリスチャン生活には標準というものがあります。たとえば、献金は礼拝行為の一部として位置づけられています。誰がいくら献金したかは誰もわかりませんし、日曜礼拝に出席しなくても自主性と神様との関係にゆだねているように、献金を十分しなくても、それはその人と神との関係の問題です。ただ聖書は「収入の十分の一をささげる」ことが標準であり祝福の基として教えていることは知っておくべきでしょう。
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■ どうして洗礼を受けるのか?
1)イエスがそう命じたゆえに。:洗礼は、マタイ28章19節にあるように、イエスが私達に命じたことです。そして全ての人が受けるようにとイエス様自身も洗礼を受けられ、見本を示されました。
(マタイ3:15)ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。
洗礼は罪の悔い改めの行為でもありますが、罪の無いイエスがへりくだり、洗礼を受けられた以上、私達の全ては洗礼を受けなければなりません。
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2)神との愛の関係の中で行われる
(マタイ3:17) また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
単に命令だからというような義務的な理由ではなく、私達を愛してくださる父は、私達が御心を歩むときにそれを喜んでくださいます。私達は神を愛するが故、洗礼を受けます。
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3)古い人を葬るために(先ほど説明しましたとおりです。)
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洗礼とは 〜です。
1)公な信仰の表明: 先ほど語ったとおりです(1ペテロ3:21)バプテスマは、、、正しい良心の神への誓いです。
2)悪魔の支配から出た事の宣言:  先ほど語ったとおりです。
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3)古い自分を葬り去る葬式
先ほど洗礼は結婚式のようなものだと表現しましたが、それはまた葬式でもあります。古い自分と決別し新しい歩みをする事を意味します。もし古い自分と決別しないなら、それを引きずって生きて行く事になります。
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ローマ6:4-6)キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られた・・。キリストが御父の栄光によって死者の中から蘇られたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするため・・。6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになる・・。6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるため。
洗礼を受けるときに私達はイエスの死と同じさまになります。十字架にかかって死ぬ前のイエス様の体は滅びていく肉体でしたが、よみがえった体は二度と死ぬことの無い栄光化された体でした。私達が洗礼を受けるときに、このイエスの死と復活を象徴的に表すことになります。つまり私達が罪の奴隷でなくなる事を意味します。したがって洗礼は私達の古い人を葬り去る葬式のようなものです。
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洗礼とは 〜ではない
1)洗礼の行為や水が聖めるのではありません。 (1ペテロ3:21)正しい良心の神への誓いであり ・・・
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2)信仰の入り口であって完成ではない
私達の信仰の目標はキリストの似姿になることです。したがって洗礼は信仰生活の入学式のようなものです。そして私達の信仰の成長は自分の努力によるのではなく聖霊の働きによります。
(2コリント3:18)主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。
(エペソ4:13 ・・・・完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。