JP−@−C−007 基礎の学び2020年版(ver.7) C クリスチャン生活の基礎(7)山上の垂訓(マタイ5-7章)
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DoingではなくBeingについて学ぶ。
つまり英語のDO(ドゥ)「何をするか」ではなく、BE(ビィ)「どうあるのか」であることについてです。
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「山上の垂訓」と呼ばれるマタイの福音書5章〜7章の御言葉を読むときに、多くの人が感じるのは「私にはできない」、「クリスチャンはこうでなきゃいけないのか」、「私は失格だ」というようなことかもしれません。たとえば
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マタイ5:39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。5:40 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。
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このような言葉を読むときに、たとえ年数の長いクリスチャンであっても、それを実行することが難しいと思えるかもしれません。
しかし、心配はいりません。聖書の教えは、それをただ「命令なのでそれに従わねばならない。」というものではありません。聖書は私たちが本来あるべき姿を示しているのです。聖書は単に「いい人になりなさい」といっているのではなく、具体的な目指す方向性を示しているのです。
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つまり聖書の言葉は私たちを癒し、人生をより良いものとする為のものです。
もし、「〜せねばならない」という視点に立ってしまっていたなら信仰生活はストレスでいっぱいになることでしょう。誰も聖書が言う神の基準など満たす事はできないのですから。
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言い換えるなら御言葉は鏡のようなものです。鏡は自分の姿を映すだけで、私達を支配するわけではありません。
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ビフォアー・アフター(使用前・使用後のモデル)
そして、山上の垂訓とは、私たちが癒され、解放され、御言葉につながり、神様につながる時に、時間をかけて、変化していく姿を現しているのです。ダイエットや筋トレのビフォワーアフターの写真を見て落ち込む必要はないのと同様です。それは、後にそうなっている自分の姿を示しているだけに過ぎないのですから。
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ダイエットや筋トレとの違いは、その変化は自分の力や努力によってそれを成し遂げるわけではないということです。「何をするのか」であるなら、意志の強い人、努力をする人であるなら、ある程度そのふりをすることができます。しかし「どうあるか」については神様に変えていただく領域です。
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ですからこの学びやディスカッションをしていく上で「山上の垂訓の教えは基準が高すぎて私にはできない・・・」というような言葉でお互いを慰めあうのではなく、建設的な時を持っていただきたいと思います。
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この学びを進めていく中で、いろんな解説を書いていきますが、それに沿うだけでなく、互いの経験や証しを分かちあわれるとよいでしょう。 そして、それぞれの発言の中に、それが信仰だと思っていた事柄が実は「Doing」だった部分を発見しあうのも興味深いと思います。
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山上の垂訓の内容をよく知らない人もいるでしょうし、また、互いに分かち合うためのネタ作りの為にも数分のマタイの福音書5章〜7章までをまず全員で拾い読みをしてみてはいかがでしょうか。

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マタイ5:41 あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。5:42 求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。
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この言葉はローマ人がユダヤ人を徴用することについての記述です。
たとえば1km行かせようとする人の為に、言われた通り単に1km行くだけだったらその人との関係は単なるしもべと主人の関係です。けれども、自分の意志でもう1km多く行くなら、あなたはその人の友となるのです。(友達は自分の意志で相手の願うことを行うからです。)
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また、あなたを行かせようとする人は本人は行かないつもりだったにもかかわらず、気がついたら一緒に目的地に向かっているのであるなら、それは関係を築き上げ、コミュニティーとなったということです。
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同様に、5章40節にかかれたように服を取ろうとする人にそれを与えるだけだったら、その人との関係は単なる、強盗と被害者です。けれども、上着すら与えるなら(すなわち全てを与えるなら)、あなたはその人の主人となるのです。(イエス様も、私たちに全てを与えてくださったのですから)
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これは驚くべき真理です。つまり、「私たちがどのような世界観を持っているかで、他の人との接し方が変わってくる」ということです。
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そのためにも私たちは、自分が神にあってどういう存在であるかを知らねばなりません。
そうでなければ、自分はただ利用されただけのお人よしだと自分を責めてしまうかもしれません。
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「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)という言葉や「もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。」(第2テモテ2:11-12)という私たちに語られた言葉の意味を心の深い部分で理解しているなら、私たちの歩みは変えられます。聖霊がそれらを教えてくださるのです。
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聖書が言っている世界観を身につけるとは、神様が見られるように物事を見ていくといった、霊的な視点を持つことであり、私たちの努力にかかっているものではありません。
それゆえ、他の人と関係を結ぶためには、神との関係が大切であり、神との関係を確立させるためには、神との間を妨げとなっている事柄(罪、心の傷、悪い習慣)を取り去られる必要があるのです。
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山上の垂訓の言葉の本質は心の内面です。外見だけつくろっていれば良いのではなく、動機などの心の内側にあるものが正されることが大切である事を教えています。別の角度から見ていくなら、ゆるぎない岩の上に建てられた人生を建て上げる秘訣は自分の力でがんばって繕うことではなく、正直で裏表の無い心で主に従い、ついていくことにあります。
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日本人は世界的な基準から見てとても良い人たちだと思います。モラルや民度も高いです。
しかし、欠けているものがいくつかあります。その一つは、自分は何者かというアイデンティティーです。
それ無しに良い人であろうとしたり人と関わるなら、気を使い過ぎてストレスになることでしょう。
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ゆうるがない人生への最高のモデルを提供
ただ神を信じれば幸せになるとは言っていません。その教えを積極的に実行することによって私たちはゆるぎないものとなるのです。マタイ7章24節には「私のこれらの言葉を聞いてそれを行なう者は、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。」と書いています。
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岩の上に家を建てるとはゆるぎない人生を手に入れる事を意味します。それでは、これらの言葉とはいったいどの言葉でしょうか?
この言葉とは聖書一般であり、救いの岩であるキリストだと解釈されることが多いようです。もちろん、そういう解釈もできますが、聖書本来の文脈に沿って理解するなら、これらの言葉とは明らかに山上の垂訓と呼ばれる。5章から7章にかけての言葉なのです。すなわち山上の垂訓に書いているような反応を自分の世界観として生きていけるなら、ゆるぎない人生を手に入れることが出来るのです。
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揺るがない人生を手に入れるためにどうすればよいかを聖書は隠しておりません。私たちに命を与えた造り主を覚え、私たちの世界観、価値観が変えられるなら、それは誰でも手に入れることができるのです。