JP – @ – D – 002 2017年版(ver.5) Dグループ 信仰の土台 02 聖霊と聖霊のバプテスマ
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聖霊とは何か
人は誰でも霊を持っていますが、霊というのは、その人の最も中心的かつ本質的なものです。
同様に聖霊とは神の付属物ではなく、神ご自身の本質でありそのものなのです。
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聖霊はイエスを信じた人の内に住みます。つまり、救われたことの保証です。(1コリント3:16 )「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」つまり神は私達のそばにおられ、(イザヤ7:14)『インマヌエル』(訳すと「神は私達とともにおられる」のです。
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(ヤコブ4:5)「それとも、「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。」という聖書のことばが、無意味だと思うのですか。」 とあるように、神が私達をしたい求めるのは、単に私達が神の子であるだけではありません。私達の内に聖霊が住んでいるからです。
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基本的には、紳士なので私達に無理強いをすることはありませんが、彼を悲しませてしまう事は起こります。ピノキオに出てくるコオロギは聖霊を現しているといわれています。
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また、(ヨハネ5:41)「 わたしは人からの栄誉は受けません。」とあるように、イエスは私達の人間的な賛美のことばを願っているわけではありません。
正しい賛美の方法は、御霊の助けによってイエスをほめたたえることです。聖書にはこう書いています。(ヨハネ16:14)「 御霊はわたしの栄光を現わします。・・・」
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■ 聖霊のバプテスマとは何か
バプテスマとは「浸す」という意味です。ですから、単に聖霊が与えられること(内にすむこと)と区別して理解すべきです。コップに水を少しずつ注ぎ続けた時に、ある時点であふれ流れます。これが聖霊のバプテスマです。したがって多くの場合明確に目で確認できるしるしが伴います。
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使徒の働き2章で初めて聖霊のバプテスマが与えられた時に、人々は(具体的な)他国の言葉で語ったように、それを受ける時に顕著な表れがあり、そのしるしは多くの場合「異言」を語ることです。
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救われた時に自動的に聖霊のバプテスマを受けるという考え方がありますが、次の御言葉からもそれは正しくありません。
使徒8:15 ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。8:16 彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。
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イエスの弟子達もイエスが地上にいる間にも奇跡を行いました。それは聖霊が彼らの上にとどまっていたからです。けれどもその時点では、まだ誰の内にも聖霊は住んでいませんでした。
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(ヨハネ20:21)「・・・父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」20:22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」
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イエスが息を吹きかけたときに、弟子達は聖霊を受けました。それはちょうど私達がイエスを信じたときに聖霊が与えられるのと同じような状態です。けれども聖霊のバプテスマとは、それよりもさらに大きな聖霊の注ぎです。それが与えられるまで、彼らはペンテコステの日まで待たねばなりませんでした。
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異言を語らないからといって「聖霊のバプテスマを受けていない」とはいえませんが「自分は受けている」と主張するのであるなら、異言を語れるように求めるべきです。
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聖霊のバプテスマを受けると人は大きく変えられます。
注意)一度与えられたらそれで良いわけではありません。求め続け満たされ続ける必要があります。
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(使徒1:8) しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
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1)聖霊のバプテスマは宣教の力です。:ですから先ほど説明した宣教の「奇跡の源」を求めるのでしたら、聖霊のバプテスマを受けるべきです。
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2)確信が与えられます:自分の救いの確信、伝道したいという思い、世の誘惑に打ち勝つ事が容易
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3)その人の徳を高めます: (第1コリント14章4節) (異言の祈りにはF−04で詳しく解説します。)
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聖霊のバプテスマを受ける(異言で祈り始める)には:
多くの人が聖霊のバプテスマを求めなかったり、受けて維持しないのはその力と必要を知らないからです。
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