JP – @ – 003  2017年版(ver.5) Dグループ 信仰の土台 03賛美・礼拝
■・■1/2


賛美:  クリスチャン生活で重要な事柄の一つは賛美です。「賛美=歌」ではなく、本来は賛美は神を讃えることです。ですから必ずしも音楽を伴う必要はありませんが、音楽理論は完全なる秩序の上に成り立っており、音楽は神の言語ですので、神を讃えるのにメロディーを伴うなら、より効果的です。
A
1) 主は賛美の中に住まわれる。
(詩篇22:3) けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。
主は賛美の中に住まわれるのですから、ある意味でもっとも容易に神と出会う方法は賛美です。
B
2) 主の臨在と力をもたらす。
(第2列王記3:15-16)立琴をひく者が立琴をひき鳴らすと、主の手がエリシャの上に下り、、、
預言者エリシャは王の態度に怒っていました。そういった心の状態の時には神の声を聞くのは難しいものです。しかし、賛美を始めると主の霊が下り彼は預言することができたのです。
C
主の臨在がもたらされ、主の霊が下るのですから、主の霊によっていろんなことが起こります。
癒しが起こります。悪霊からの解放が起こります。特別に神の愛を感じるような経験をすることでしょう。
D
3)賛美は捧げものでありいけにえ:
(ヘブル13:15)、、、賛美のいけにえ、、(中略)、、を、神に絶えずささげようではありませんか。
詩篇のあらゆる箇所に「主をほめたたえよ」と書いています。賛美する事は命令です。
E
気分が乗らないときにも肉体を従わせて、賛美しましょう。賛美は基本的に楽しいものですが、心の状態によらず賛美することは私達の責任です。そういった時にこそ、主の大いなる業を見ることでしょう。
F
4)悪霊に対する霊的戦いの武器
a)(イザヤ30:32) 主がこれに下す懲らしめのむちのしなうごとに、タンバリンと立琴が鳴らされる。主は武器を振り動かして、これと戦う。
私達がタンバリンを打ち鳴らすときに、神自身が武器を動かし戦って下さるのです。
それゆえ私達の教会では、賛美の際に、会衆にタンバリンを持たせています。
G
b)悪霊を縛る:詩篇149編8節に、主を喜び、踊り、タンバリンと竪琴(ギター)をかき鳴らすときに敵(貴族=霊的階級の高い悪霊)が縛られると書いています。逆に言えば、私達がそれらをしないなら私達が縛られます。特に叫ぶこと、踊る事は自分自身の解放の為に重要です。
H
5)表現するもの
(詩篇66:8) 国々の民よ。私たちの神をほめたたえよ。神への賛美の声を聞こえさせよ。
賛美は人の為ではありませんが、周りの人が見て、聞いて励まされるようにするのは良いことです。
(詩篇40:3) 主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。   私達が賛美をする姿は、周りの人に主への信仰(畏れと信頼)を与えます。
I
6)私達の安全
(ピリピ3:1) 最後に、私の兄弟たち。主にあって喜びなさい。前と同じことを書きますが、これは、私には煩わしいことではなく、あなたがたの安全のためにもなることです。
J
7)私達に力を与える (ネヘミヤ8:10) 、、この日はわれわれの主の聖なる日です。憂えてはならない。主を喜ぶことはあなたがたの力です」。
K
8)賛美は感謝 : 賛美は感謝です。・
L
9)私たちの教会の賛美は伝統的な教会のイメージとは異なるかもしれません。しかし踊ること、ドラムを用いること、叫ぶこと、喜ぶことは聖書的であると詩篇149篇〜150篇に書いてあります。
礼拝  
(ヨハネ4:24) 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
N
礼拝に必要な2つのこと (1)「霊」による。(2)「まこと=真実、偽善が無い」による。
O
礼拝とは人間だけに与えられた、霊的な行為です。「息のあるものはみな主を褒め称えよ」(詩篇150:6)とあるのですから、動物も、植物も主を賛美しますが、礼拝ができるのは人間だけです。
P
どちらかといえば、賛美は外側に表されるべきものですが、礼拝は心の内側、そして霊の事柄です。
Q
いきなり「霊で礼拝しなさい」と言われても、よくわからないかもしれませんが、人はもともと、何かを礼拝するように作られているので(それゆえ真の神を知らない人は、お金や、人や、偶像、地位、名誉を崇拝してしまうのです。)私達の心が神に向かっているなら、体験できるようになります。
霊的な敏感さは人によって異なり、また礼拝とは、外側から見えにくい問題なので、最初はよくわからない人もいるかもしれません。でも、敏感さによって信仰の優劣があるわけではありません。
R
(ローマ12:1・・兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
S
礼拝とは自分自身をささげる行為であり、2つの側面があります。一つは、今の生活に「心を主に向ける」という行為を付け足すことです。
二つ目に、この世の価値観や、世にあわせる態度を取り去ることです。この世の価値観を取り去る為にはただ、主に願う事ではなく、私たちが決心していく必要があります。
(21)
これらの2つの側面は、霊的に成熟してくることによって自然と行えるようになることですが、霊的成長の過程においては、常に意識して行っていく必要があります。また、どんなに成熟した人であっても、この世に生きている限り信仰のアップダウンも、誘惑も、落胆もあるわけですから、必要に応じて、自分の心をそちらに向けていく必要があります。
(22)
また、礼拝は神から受け取るときです。神の愛、神からの語りかけ、啓示を受け取ります。
(23)
狭い意味での礼拝は、賛美のプログラムの中で主に後半に持たれる神へ心を向けるときです。そういったときは神の臨在が強いので、一人で祈る時より神との交流が持ちやすいです。
(24)
「自分の体を生きた供え物としてささげなさい」とあるように、自分の体で他の人に仕えていく事も礼拝です。ですから礼拝は、日常生活の中の普通の活動の中でも行えます。家族に仕え、家事をしているときもそれは礼拝行為なのです。私達の全ての活動は聖いものです。育児をすることは、会衆に説教をするのに比べて大きな働きには見えませんが、神の目には同様に聖い活動なのです。ですから、私達はあらゆる活動の中で自分自身を捧げていくことにより、神と出会い、関係を深めていく事ができるのです。
(25)
私達の体は「神の霊(聖霊)が宿る宮」です。聖霊自身が私達の心が神に向かう事を助けてくださるのですから、その働きを妨げないなら、誰でも容易に礼拝することができるのです。
(26)
サマリヤの女(ヨハネ4章)は、自分の罪を知りつつも、それでも愛してくださる懐の大きい愛を知り、そして、自分の過ちを素直に認めたときに、礼拝とは何かを体験的に学ぶことができたのです。
(27)
同様にもし、あなたが礼拝する事に困難を感じているならば、過去の束縛や霊的な束縛があるのかもしれません。思い当たることがあるなら相談してみてはいかがでしょうか?