JP – @ – 004   2017年版(ver.5) Dグループ 信仰の土台 04 デボーション
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デボーションとは「捧げる」という意味です。クリスチャン用語としての狭い意味は「毎日の生活の中で(一定の時刻や時間を決めて)習慣的に、祈り、賛美し、聖書を読んだりする行為」のことを言います。
私たちは自分の良い霊性を保つために、霊的な生活習慣を確立する必要があります。デボーションを助けるために数多くの本が日本でも出版されています。SCGでは「リビングライフ」を用いることを勧めています。他の人と歩調をあわせて、励ましあいながら聖書を読み進めるためです。
A
(1テモテ4:8) 肉体の鍛練もいくらかは有益ですが、、、、敬虔は、すべてに有益です。
この聖句が語っていることは、スポーツ選手が日々、黙々と肉体の鍛錬をして良いコンディションを保っているように、クリスチャンも良い霊性を保つ為に日々、習慣とすべきことがあるということです。
B
■ デボーションの要素
1) 祈ること (神に語ること、神から受け取ること)
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(エペソ6:18 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。
この聖句から「祈りにはいくつもの種類がある」ことがわかります。
D
祈りの本質の第一は神との会話です。ですからどのように祈るかについて知るには、人とどのように会話するかを考えてみるといいでしょう。すわなち、心を向けること、自分ばかり話さないなどです。
E
「御霊による祈り」=御霊に導かれた祈りのことであり異言で祈ることとは限りません。
最初からうまく聖霊に導かれるのは難しいかもしれませんが、日常生活の中で、誰かのことや、祈りの必要を覚えたら、短くてかまわないので、その場で、その事を祈ってみたらよいと思います。そういった習慣をつける事は、御霊によって導かれることを学ぶ道筋となります。
F
● 神と親しく交わる祈り
祈りの方法に規制はありません、黙想したり、寝ながらでもできます。自分自身を表現するときでもあります。また、こちらが語る以上に重要なのは神から聞くことです。
エペソ6章18節には祈りと願いの2つが書かれています。すなわちこの2つは区別されるべきものです。
G
この親しく交わる祈りは英語でSOAKING(ソーキング)と呼ばれるものでその意味は「浸し」です。
もっとも手軽な方法は、横になり静かなクリスチャンの音楽をかけながら黙想し聖霊に浸される方法です。
H
2)願い事を伝える
神は、私たちの必要をご存知ですが、私たちがそれを表現することを願っています。(マタイ20:32) すると、イエスは立ち止まって、彼らを呼んで言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」
I
イエスは、盲人の必要を知っておられましたが、あえて質問されました。私達は、神と問題との間に立つ仲介者として召されているので、私達が神に訴えなければ、神の答えは起こらないのです。
レストランでウエーターが注文を聞いたのですが、客の声が大きかったので調理師の耳にも注文が届いても、調理師は作り始めないでしょう。ウエーターが調理師に頼んで初めて有効なのです。
J
3)悔い改め: (詩篇51:17) 神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。
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4)賛美、礼拝
前回、取り上げたので深くは語りません。礼拝の中に、前述の神と親しく交わる祈りや、神から生きた言葉を受け取るというようなことも含まれます。
L
5)聖書を読むこと : (マタイ12:34) まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。
心の中が御言葉で満ちているなら、私たちの語る言葉は信仰に満ちたものとなり、神の御心を告白できるのです。夜寝る前に、思い煩いに満たされている人は、睡眠中も悪い思いや夢に満たされることでしょう。
それとは逆に、暗唱した聖書の言葉を思い巡らす事は良いことです。それによって一晩中神の啓示に満たされる(起きた時に覚えていない事も多いでしょうが、、)事ができるのです。
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(2テモテ3:15) また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。
(2テモテ3:16)聖書は全て、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。3:17 それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。
N
6)聖書を学ぶ: 
聖書の言葉を時代背景、文化的背景を知らず、ただ読むだけだと理解できないどころか間違った解釈をしてしまう場合もあります。
O
7)神から生きた言葉を受け取る
(マタイ4:4)『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』
P
もちろん吟味が必要ですが、神から直接言葉が与えられることは大きな励ましとなります。それは耳で聞くわけではなく心に与えれる印象です。ただ、見分けるためにも、また豊かに与えられるためにも聖書を読む必要があります。神の啓示の言葉は料理にたとえるならレシピーであり、聖書の言葉は食材です。具体的な神から啓示や導きを受け取りたいのなら、聖書を熱心に読むべきです。
Q
8)断食 :断食は、私達の霊を研ぎ澄ますために非常に有効な手段です。いきなり食事を絶つ断食をするのではなく最初はヨーグルトやジュースを飲みながら、はじめるなら苦しくはありません。
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9)人に仕える :(イザヤ58:6)わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。58:7 飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。
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特に家庭の主婦は、家族に仕えるために時間が奪われて聖書をゆっくり読む暇もない事もあるでしょう。けれども正しい心で他の人に仕えるなら、その行為こそ真の礼拝なのです。したがって、忙しくて神を礼拝する、暇が無いという人は誰もいないのです。
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(ヤコブ1:27) 父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。 (2:17)行いを伴わない信仰は死んだようなものです。
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実際的な行動がなければ、自己満足の信仰で終わってしまいます。一人一人がそういう状態であるなら、教会そのものが社会に対して、影響力を持たない自己満足な状態となり、命が鈍ってしまいます。
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10)御心を行う
(ヨハネ4:34)イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。イエスが言われた食物とは、私達の霊を養う霊的食物です。神の御心を無視する生活は霊的栄養の欠乏をもたらし、クリスチャンとしての成長にとって大きなマイナスです。
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11)福音を伝える、魂の救いを見る
また、このイエスの言葉は、サマリアの女に福音を伝えた後に言われました。個人伝道をした人はよくわかることですが、人を救いに導くことほど大きな喜びと霊的満足を与えるものはありません。