JP – @ – 005   2017年版(ver.5) Dグループ 信仰の土台 05 与える
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「全てのものは自分のものではなく管理を任されているだけ」です。ダビデは「私は何者なのでしょう。、、このようにみずから進んでささげる力を保っていたとしても。すべてはあなたから出たのであり、私たちは、御手から出たものをあなたにささげたにすぎません。」(第1歴代誌29:14)と語りました。
神は私達に「(1)健康、(2)仕事、(3)才能、(4)お金、(5)時間、(6)機会、(7)心、(8)その他」
など多くのものを与えました。
A
「与えられたものは(1)与えた神に返す。(2)別の人に廻して分け与える」という2つの方法によって循環させる必要があります。
B
■ 才能を用いて他の人に仕える
(マタイ25:14)天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。
25:15 彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。・・・・・
C
主人は神、タラントを受けた人は人間を表しています。タラントとは当時の通貨の単位ですがタレント、すなわち才能を象徴しています。
D
1タラントを受け取った人は、他の人と比べて少ないと考えましたが、実際1タラントは今の貨幣価値で数百万円に相当します。つまり、自分では少ないと思い込んだだけで実際は十分与えられていたのです。
E
マタイ25:29) だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。
そのようなわけで持っていない人は誰もおらず、いるとしたら「自分は持っていない」と思い込んでいる人なのです。この人が自分の才能を生かして用いることができなかったのは、「他の人と比較して自分はだめだと思った。」=すなわち、コンプレックスがあったのです。
F
与えることに困難を感じている人は、ABグループで見た心の癒しをもう一度吟味してみましょう。
G
■ 体・健康
健康も若さも永遠ではなく、たとえ救われ新生しても肉体を持っている間は病気になるし、いつかは死にます。それでも、人は何らかの肉体的弱さをもっていたとしてもそれによって、自分に限界を与えてはいけません。
H
(ヘブル10:5 )「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。10:6 あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。10:7 そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。、、(中略)、神よ、あなたのみこころを行なうために。』」
I
この聖書の言葉はキリストが人となられ、肉体という限界の中に収まられながらも御心を行なわれたことについて言及しています。人によって健康や若さは異なります。けれども、自分の限界の範囲内で構わないので、最大限自分を捧げて行く必要がありますそれが本当に生きたささげものであり、礼拝です。
J
(ローマ12:1兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
K
水野源三という人は全身不随で言葉を話すことも出来なくなりましたが救われた後、唯一可能な表現である「まばたき」で美しい多くの詩を作りました。彼の詩は今でも多くの人たちに希望を与え、その名は「まばたきの詩人」として知られています。彼は自分が持っているわずかなものを生かして用いたのです。
L
たとえ自分の能力や肉体に制限があったとしても、それは問題ではありません。神にとって大切なのは持っているものをいかに忠実に生かして用いたかなのです。
M
■ お金
お金が使えるのは生きている間だけです。この地上で得た資産を天国に持っていくためには天国で通用する通貨に両替しなければなりません。その行為を宝を天に積む(マタイ6:20、19:21)と呼びます。つまり献金は天国に貯金する意味があります。
N
よく言われることですが、神はお金を必要としていません。それでは、お金を必要としていない神に、どうして献金をする必要があるのでしょうか。
O
彼が求めているのは私達の心です。そして献金という事柄は、私達の心がどこにあるかをもっとも簡単に見分けることができる事柄なのです。
(マタイ6:19-21) 自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。、、6:20 自分の宝は、天にたくわえなさい。、、、6:21 あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。
P
我々の収入の十分の一はもともと神のものであると聖書(マラキ3章8節〜12節)は語っています。ですから、神から与えられた祝福の十分の一を神にお返ししましょう。
同様に集会に出席した際の礼拝献金も勧めています。それは感謝の表れだからです。
Q
また、多くの教会では、洗礼、クリスマス、復活祭、その他さまざまな人生の節目において専用の献金袋を準備して献金をささげることを教えています。私達の教会では、自主的に、心の願いによって捧げることを願っているので特にそのような指導はしていませんが、機会を見つけて捧げることはよいことです。
R
■ 時間
忙しい社会生活の中では、時間的な余裕が無ければ、他の人に心を配ることもできません。心を向けるというのは時間を与えることでもあるのです。
日常生活の中で、神の栄光を表す機会、福音を伝える機会、誰かに手を置いて祈る機会がいつやってくるかわかりません。ぎりぎりの時間で、時間に追われた生活ではなく、毎日余裕を持って行動していくなら突然そのような機会がやってきても、それを生かして用いることができるのです。
S
■ 機会
(エペソ5:16 機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。5:17 ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。
(21)
神は私達に祝福やチャンスをくださいますが、その扉はいつも開いているわけではありません。それを賢く生かして用いるべきです。
(22)
また、機会を生かすとは、他の人に機会を与えることも意味しています。後進者に機会を与えるならば、自分が次の上の段階に押し上げられる事を意味します。多くの人は、自分の地位などにしがみつき、他の人を建てあげようとしません。それによって全体的な成長が滞ってしまうのです。
(23)
■ 心
(エペソ4:32) お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。
(24)
クリスチャンが持っている最も大きい財産の一つは救いと平安が与えられることによってもたらされる心の余裕です。教会の集会の運営一つをとっても、もっとたくさんの奉仕者を必要としていますが、実際には必要が満たされていません。人々を奉仕の働きから遠ざける大きな原因は心が忙しくなっていることでしょう。
(25)
与えることには多くの分野がありますが、これらすべてに共通していることは、それを実行するために必要なのはその人の意思です。そして意思を作り変えるために聖霊の力が必要です。また、聖霊が働くためにはその人の心の癒しが必要なのです。