JP – @ – 006    2017年版(ver.5) Dグループ 信仰の土台 06 御霊の実と聖霊の賜物
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(ガラテア5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、5:23 柔和、自制です。
A
りんごの枝がりんごを実らすのに努力は要りません。りんごの木につながるだけです。同様に御霊の実を実らす為にはイエスにつながっていればいいのです。そするなら、全ての人に、程度の差あれ、全ての実が与えられます。御霊の実とは何かを一般的な言葉で言うなら聖霊が与える「良い人格」です。
B
(ヨハネ14:27) 、、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。
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愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」といった事柄自体は超自然的なものではありませんが、ヨハネ14:27で「世が与えるものとは異なる」と言われたように、平安を持ち得ないような状況で平安を持つ事が出来、欠乏の中で喜びが湧き上がり、ぜんぜん知らない人に対して哀れみや善意が沸いてくるのです。
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それと対して聖霊の賜物というものがあります。御霊の実が「人格」であったことに比較して、聖霊の賜物は「力」です。これは超自然的な力です。
E
(1コリント12:6) 働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。12:7 しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。
12:8 ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、12:9 またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、12:10 ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。
F
力を伴わない良い人格は誰も傷つけないが、人格を伴わない力は危険です。聖霊派のクリスチャンはともすれば力を求めることに偏りがちですが、私達はまず御霊の実を求めるべきです。北朝鮮が核兵器を持つことに批判があつまっているのは、人格を伴わない国家が力を持つことが危険だからです。
G
聖霊の賜物は神からのプレゼントです。人によってある特定の賜物が顕著にあらわされます。そして、時にはいくつもの賜物が顕著に現されます。
でも勘違いしないでください。「私には〜の賜物は与えられていない」という言い方は正しくありません。私達は全員9つの賜物を発揮することができる聖霊を持っているのです。ですから誰であっても、必要なときには主はその人を用いて、聖霊の力を現すことができるのです。民数記22章28節ではロバが人間の言葉を語りました。ロバですら預言をするのでしたら、どんな人でも聖霊の力を発揮することができるのです。
H
勘違いしてはいけない事は、聖霊の賜物を発揮することと、その人の霊的成熟度、あるいは聖さは関係がないことです。癒しの賜物を持っている人が大きな罪を犯し続けていたからといって、すぐに力を失うわけではありません。(ローマ11:29)「神の賜物と召命とは変わることがありません。」と書いている通り、神はいったん与えたものを、すぐに取り去るわけではないのです。
I
ですから、どんなに優れた賜物を持っている人がいても、それによってその人を信用したり判断したりしないでください。人を見るときには人格を見なければいけません。
J
クリスチャンの中にはイエスを信じて間もないにもかかわらず、預言の賜物や癒しの賜物を発揮する人も時にはいます。けれども、その人の心の傷が癒されていないなら、自己実現や人を自分の思い通りにコントロールするために用いてしまうことが時々見られます。
また、(特に霊的に未成熟なあいだは)サタンの攻撃の的になってしまうので、聖霊の賜物を発揮している人の中の決して少なくない数の人達が教会から離れたり、主から離れてしまう事が時折見られます。
K
聖霊の賜物を主が私達に与える目的は7節にあるように「みなの益となるため」なのです。つまり、キリストの体を立てあげるため、人を助けるためです。それゆえ、自分には聖霊の力が与えられていると感じる人は特に自分の心を吟味し、謙虚であり、人に仕えることを心がけるべきです。
また指導者に従うことも重要です。エペソ4章11〜12節にあるように霊的指導者を主が立てられたのは、
あなたに与えられた賜物を最大限に発揮するためだからです。もし、「自分はアドバイスを受けたくない」という人であるなら要注意です。
L
神は、まず少し力を与えて、その人がそれをどう用いるかを見ておられます。すなわち謙虚な心で他の人の益のためにそれを用いるかどうかといった心の動機を見ているのです。ですから大切なのは人格なのです。
M
聖霊の力を発揮するのは大きく分けて3つのレベルがあることを知ってください。(1)誰でもできるレベル、(2)聖霊の賜物として特定の人に特に現されるレベル、(3)主が任命した役職としてのレベルです。
N
(3)のレベルは預言に関して言うなら「預言者」と呼ばれる人達のことで、ごく限られた人のレベルです。
(2)の段階は第1コリント12章に書かれた賜物についてであり、今まで説明してきたことですが、今から(1)の「誰にでもできるレベル」について見て行きたいと思います。
O
(マルコ16:17)「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、16:18 蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」
P
ここに書いている言葉は、「信じる人々には次のようなしるしが伴います」と書いているように、全ての人に与えられるレベルの聖霊の力です。ですから全ての人は聖霊の力により悪霊を追い出し、新しいことば(すなわち異言)を語り、癒しを行うことができるのです。
特に、癒しと異言に関しては皆さんが頻繁にそれらの賜物を用いていくことを私は願っています。癒しが起こるときに癒された人が益を受けるだけではなく。本人も、その周りにいる人の信仰も立てあげられるからです。
Q
異言というのもいくつかのレベルがあります。特別なレベルのものは「解き明かすことによって」預言となったり、特別なとりなしの為に用いられます。ここでは最初の段階の異言について解説しています。
R
異言は神が与える新しい言葉です。何を言ってるのか、本人にもわかりませんが神に向かって奥義を語っているのです。異言の中には解き明かす事によって「預言」となるものもありますが、全ての異言が解き明かせるわけではありません。また、使徒の働き2章に書かれたような具体的な外国語としての異言はさらに稀です。
S
異言についてよくある勘違いは聖霊が自分の口を使って勝手に動かしてしゃべるものだという勘違いです。
(1コリント14:2)「 異言を話す者は、、自分の霊で奥義を話すからです。」と聖書に書いています。異言を話すのは自分の霊(自分自身)だということを忘れないでください。正確に言うなら、聖霊によって活気付けられた自分の霊が聖霊と共に話す言葉です。
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また、祈り始めるのには自分の意思が必要です。ある人は聖霊の力を感じないと祈れないという人がいますが、癒しの祈りだって、別に聖霊の力を感じなくても祈り始めるものです。異言の祈りも同様です。自分の意思で自分の口を動かし始めて祈るものです。
最初は、自分の意思で祈り始め、自分の霊で祈っていても、そのうち聖霊による祈りの割合が少しずつ増えてくることでしょう。大切なのは失望しないで祈り続けることです。赤ちゃんが言葉を話し始めたときに、上手に話せないのは当然です。話し続けることによって同様に異言も、語り続けることによってうまく祈れるようになるのです。
聖霊の割合が低いうちは、異言で祈ることの大きな意味を感じないので、多くの人はすこし祈って飽きていまいもう祈らなくなってしまいます。けれども異言で祈る事は重要です。
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(1コリント14:4) 異言を話す者は自分の徳を高めますが、預言する者は教会の徳を高めます。
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異言で祈るときに自分の徳を高めることができるのですから、私達は積極的に異言で祈るべきです。