JP – @ – 007  2017年版(ver.5) Dグループ 信仰の土台 07霊的権威
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(ルカ7:7-9)、、ただ、お言葉をいただかせて下さい。そうすれば私のしもべは必ず癒されます。7:8 と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士たちがいまして、その一人に『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。7:9 これを聞いて、イエスは驚かれ、ついて来ていた群衆のほうに向いて言われた。「あなたがたに言いますが、このような立派な信仰は、イスラエルの中にも見た事がありません。」
A
イエスが驚かれたシーンは聖書の中でもかなりまれな出来事です。どうして驚かれたのでしょうか?
B
それはこの百人隊長がイエスの持っておられた権威だけでなく権威の原則を知っていたからです。
その原則とは、「権威を行使するためには権威の下にいなければならない」ということです。
C
体格の大きな警察官でも非番の日に私服で交差点に立って車を止めることはできません。けれども、どんな小柄な婦人警察官でも制服を着ているなら、相手がやくざや政府の要人であっても、彼女の指示に従います。
D
それはその人の能力によるのではなく、与えられた権威のしるしを身に着けているからです。神は私たちに霊的権威を与えました。それゆえ私達は圧倒的な勝利者(ローマ8章37節)になれるのです。勝利に満ちたクリスチャン生活と日常生活に追われ圧迫された生活との違いはその権威を用いるかどうかにかかっています。
E
その権威は自動的に与えられるものではなく権威を行使するには権威の下、守りの元にいる必要があります。権威の下にいるとは権威に従うという意味です。私たちは第一に神の権威に服従する必要があります。
F
(ヤコブ4:6-7) しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」4:7 ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。
G
神に従う人は悪魔に打ち勝ち守られると聖書は言っています。打ち勝つといっても多くの場合は戦う必要もないほどです。悪魔が逃げ去ってしまうからです。
H
クリスチャンであるなら神に従う事の大切さを理解するのは難しいことではないと思いますのでここでは多くのページを割きませんが、もうひとつ大切な事は神によって立てられた権威者に従うことです。
I
(ローマ13:1) 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。
J
この聖書の箇所が言っている事は「その国の法令を守り権威者を敬いなさい」ということです。ダニエルは偶像礼拝者のネブカデネザル王に対して「王の治世がいつまでも続きますように。」といって尊敬を表しました。偶像礼拝者の王や支配者を敬い従わねばならないとするなら、ましてやメンバーが霊的に成長し守られることを願ってやまない霊的リーダー(牧師や教会のスタッフ)を尊ぶ事はなおさらのことです。
K
私たちは霊的な戦いの中にいるのであり、サタンは階級組織を組んで軍隊として活動しているのであるのなら、私たちも軍隊として秩序にのっとって歩む必要があります。戦いには戦略が必要です。もし各兵隊が援護射撃が無いのに勝手に戦場に飛び出したら敵の攻撃の的になってしまいます。
L
もちろん「秩序だった歩みをする」とは盲従ではありませんし、言われた事だけをすればよいわけではありません。神は各人の心に浮かんだ自由な願いや、やりたい事を通じて神の計画を進めて下さるのも事実です。
M
(ピリピ2:13) 神は、御心のままに、あなたがたの内に働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださる。
人は自由ですけど、それは御霊の導きによる自由でなければ効果的な働きは出来ません。まして放縦であるなら、教会に痛みを与えることになるでしょう。
N
あなたの持っている自由が「御霊が与える自由かそうでないかは」、霊的な権威者を尊ぶ心を持っており、それに喜んで従うかどうかによってわかります。
O
この霊的な守りが与えられる事をクリスチャン用語で「覆われる」といいます。その意味は、傘をさした時に雨が当たらないように霊的な覆いの傘の下にいるなら霊的に守られるのです。
霊的な守りを与える権威者の事を「覆い」といいます。この教会のメンバーを霊的に覆っているのは牧師であり、スタッフ達です。そしてこの教会の覆いはメキシコの教会です。私のメンターはガルサ牧師夫妻です。
P
●「覆いの下」にいるとは(1)守りを受ける:
1998年までこの教会はインターナショナルスクールという公共の場所で集会をしていました。クリスチャンの校長が(周りの反対をかえりみず)好意を与えてくださり体育館を集会に使わせてくださいました。
ある日、牧師の不在時に建物の鍵の管理を任されていた私は、鍵をかけるのを忘れてしまいました。それによってもう建物が使えなくなるかもしれないという危機を通りましたが、私は牧師に謝りまっただけで後は何もする必要はなく心が平安でいることができました。
Q
多くの人は「覆いの元にいる人は守られる」という祝福を見落としています。守られるのは上の体験談のように世間の批判から守られるだけではありません。最も重要な事はサタンの攻撃から守られるのです。
R
●「覆いの下」にいるとは(2)油注ぎ(神の力)を受ける:
(詩篇133:2)それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。
S
大祭司アロンに注がれた油が、とどめられることなく自然に下まで流れる油は油注ぎ(神からの力)を象徴しています。衣の途中に妨げや破れがあったら油は下まで流れません。私たちの心に反抗や不従順が無いのなら神からリーダーに与えられた霊的な力や霊的な守りが妨げられずにあなたの元に届くのです。
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●「覆いの下」にいるとは(3)神に対する従順のバロメーター:
(第1ヨハネの手紙4:20) 神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。
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この聖書の言葉は別の意味にも適応できると思います。「目に見えるあなたの霊的指導者に従うことができなくて、目に見えない神に従うことは出来ません。」という意味です。
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● どのようにして守られるか。:
「覆い」があなたの為に祈っているのであなたは自動的に守られる・・・それもあるかもしれませんが、実際的な話を言うなら、霊的リーダーは、あなたの態度、行動が適切でないなら「勧め」「訓戒」を与えるでしょう。その言葉を心に留めて、自分の行動に反映させることによって守られるという側面もあるのです。 
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権威の元にいること、従うことが霊的な戦いで重要な事柄であるなら、その関係を壊したいと最も願っているのはサタンです。ですからどのような原因が分裂をもたらすのかを私たちは見ていく必要があります。ここでは権威者を信頼できなかったり、権威者に従えなくさせる原因について見ていきましょう。
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◎ 妨げる原因(1)心の傷や過去の出来事のトラウマ:
今まで学んできたように、過去の人間関係(特に父親との関係)が悪かったために出来た心の傷というものはその個人の中に敵が侵入する足場となってしまいます。
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◎ 妨げる原因(2)持っている霊:
反抗の霊、放縦の霊を持っている人は権威に服従する事はできません。この霊の働きを押しとどめるのに重要な鍵はへりくだりです。
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これらのトラウマや霊から解放される「鍵」のひとつは「心をオープンにして他の人に分かち合う」ということです。誰でも、心に多少の葛藤を持っているものです。それを信頼できる霊的に成熟した(覆いの下にいるひと)他の人に分かち合い、祈りあう時に解放がなされるのです。
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先ほど、権威に従う人は覆われ守られるといいましたが、それは別の角度から見るなら、従う人は悪い霊ではなく良い霊を持っているがゆえ、敵が進入してくる入り口が無いので守られるのです。
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◎ 妨げる原因(3)霊的リーダーに傷つけられた経験:
牧師がメンバーを傷つけてしまうことは起こりうることです。そして、それによって関係が気まずくなることも起こりうることです。知っていただきたい重要な事は原因が何であれ、あなたが霊的リーダーの覆い(教会の守り)から引き離されるならば、サタンはしたい放題の攻撃を加えることができるのです。
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牧師がメンバーを傷つけてしまう原因のひとつは、その人に良い事(アドバイス)をしようとしてもその方が過去に負ったトラウマや傷がそれに反応することによって、傷つけられたと感じることは起こりうることです。
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それは残念な出来事ですが、そのすべてがマイナスではありません。なぜなら、それをきっかけに、心の内側にある隠されたものがあらわにされるからです。多くの人は過去の傷に触れないように心にふたをして生活しているので、あまり意識をしていませんが、それらが癒されるためには表面化される必要があるからです。
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特に牧師という存在は霊的な父親でもあるので、自分の父親から受けた「拒絶、無関心、虐待、搾取」といった過去の傷が、牧師との関係で掘り起こされる事はよくあることです。ですから霊的リーダーとの関係に溝が出来ても、それを問題と考えてはなりません。それはより解放を与える機会となるのです。問題が起こったときに「これを通じて私はどれだけ聖められ成長できるのか」と期待感を持つべきです。
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それに加えて、牧師も完璧な人ではないので、時には配慮を与えることが出来なかったり、見当違いの判断をしたり、慎重になりすぎるあまり過敏に反応してしまって、問題を複雑にしてしまうことも起こりうることです。しかし、神はそのような機会も用いることができます。
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たとえば「牧師が誰かに訓戒をしようと話をしたが、それは牧師の勘違いであったにも関わらず、それを通じてその人の心が探られ、心の癒しが始まるといったような出来事が起こりうるのです。
人の目には判断ミスであっても神の目にはそうではありません。 実際、不完全な人間である私が教会を指導する立場に建つことが出来るのも「すべてを神が治めておられ」るという安心感なのです。
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多くの賜物の与えられたクリスチャンであっても「権威の元にいる」という原則を理解していないが為に、主に用いられないばかりか、時には教会につながることが妨げられ、主からも離れてしまうことが見られます。賜物を持っている人は自分の能力やアイデアが発揮されるのは良いことだと考えます。でも人生という長い期間を通じて神が自分の人生を立てあげてくださることを知るべきです。その為にまず第一に学ぶべき事はへりくだりであり、従う姿勢です。いったんそれを学んだならば、神はその人を将来大きく用いることでしょう。
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皆さんが伝道熱心であったり活動的であることを心から願いますが、その人の心の態度が正しくないなら、多くの実を残すことが出来ないばかりかかえってキリストの体にダメージを与えることになります。
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(民数記12:2) 彼らは言った。「主はただモーセとだけ話されたのでしょうか。私たちとも話されたのではないでしょうか。」主はこれを聞かれた。
このケースでは、モーセが外国人の女性と結婚していたことが攻撃の口実となっていました。人の目にはそれは問題であっても、神の目には問題ではありませんでした。
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そういった個人攻撃、人格攻撃から始まって、ミリアムとアロンはモーセに逆らいました。その根底にあったのは「私たちも神の声を聞くことが出来る」という高慢な思いでした。彼らの上にも確かにすばらしい油注ぎ(神からの力)がありましたがその油注ぎのレベルの違いを理解していなかったのです。