JP – @ – E – 008  2024年 (ver.7) Eグループ良い地に種をまく07 不義についての副教材
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人生を生きていくうえで起こる、他人から与えられるいわれのない害、不条理な事柄を「不義」と呼びます。
不義の代表的な例:虐待、契約違反、何かの被害者となること(虐待、通り魔、詐欺、暴力、性暴力など)
ただし、不義とは言えないことであっても、本人の主観で不義であると認識することはあります。
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不義に対する代表的な反応としては消極的なものと攻撃的なものがあります。消極的というのは自分を責める反応です。たとえば:私は愛されていないからこうなった。私に足りない所があるからだ。だまされた自分がバカだった。もっとうまくやれたのに。自分のせいでこうなった。どうせ私なんて。というものです。
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攻撃的反応としては:不義を行った相手や関係のない他者に対して攻撃的になるなどの反応があります。
それは怒り恨み。嫉妬。復讐心。あいつに罪を自覚させたい。悪口。不義を逆手にとって支配する。などです。
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これらの反応はどちらも、実際には傷を受けたという事実から目をそらしていると言うことです。それと同時に、現在その不義によって変わってしまった自分の状態を受け入れないという自分への拒否でもあります。
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■不義を受けた後にその影響を受け続ける結果:
過去を生き続ける。思考の制限。思いや行動が束縛される。愛を受け取れない。他人を信頼出来ない。誰かを裁いてしまう。現在を生きることができない。思わぬ時に怒りが出る。その他精神疾患等。
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気を付けるべき点は、不義の原因が加害者にあるとしても傷を受けたのは自分自身です。ですから、適切な処理をせずに傷を残した場合においては、その結果を自分が負うことになってしまいます。
その結果とは上記のような「消極的な反応や積極的な反応」の他に間違った思考の形成というものがあります。
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たとえば、親が子どもを殴ったことは不義であってその不義の責任は自分にはありません。しかし「癒着した思い」と呼ばれるものについては自分に責任があるのです。それは、たとえば@『私が悪い子だから殴られるんだ』、A【良い子でなければ殴られるのだ】、B【私は殴られても仕方がない】などといった思考です。
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■私たちの決定や意思という、私たちからの働きかけ
しかしながら、私たちの人生は神様と「共に相続」(ローマ8:17)していくものなので、私たちがなすべき分もあります。共同体の中で愛され、受け入れられ、気持ちを理解されることなどの心のケアも必要なのです。
いずれにしても、それらを実現させる「共同体」という受け皿があってはじめてうまく機能するのです。
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そしてまた、短絡的でないプロセスは、私たちをより良いものと変えていくためのきかっけとなります。
神様は無駄に私たちが苦しむ状況に置かれることを許容しているわけではありません。適切に取り扱われるなら、何もなかった時よりも良い状態になることを知っておられるのです。
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すなわち、赦すべきだから赦そう。クリスチャンなんだからそうすべきだ。赦しを宣言さえすれば神様がなんとかしてくれるだろう。などといった行動は必ずしもうまくいくとは限らないのです。
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■持つべき基本的な考え方。
(1)神は良いお方 : この事を理解する上での大前提は「神は絶対に悪い事をしない!」です。それは人生のかなめとなる知識です。 人は、不幸が起きるとその理由を探します。それにはさまざまな要素がありますが、「神が良い方である」ということを理解していなければ多くの理解や判断が狂ってくることでしょう。
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(2)神が私たちに持っている計画は良い計画です。
(エレミヤ29:11) わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
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赦すことは不義を受けた負の結果のサイクルから解放することです。

ゆるすという事が実際に何をするのかを理解する必要がある。
対象加害者へのゆるし。自分へのゆるしと神のゆるしを受け取ること。
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■感情のケア: 恨みや憎しみは手放すにはある過程が必要です。それは失った物がある場合、その悲しみを悲しみ尽くすなどといったことです。そうでないと、こじれた感情は怒りに変換されてしまいます。怒りの裏にある悲しみに気付き、悲しむ事が大切なのです。
そういう過程を通らないと、赦しを宣言してもその効果は薄れてしまうことでしょう。
そして、その段階が不十分だと何度も同じ思いが戻って来たり、不義の影響が残り続ける事になります。
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■相手とのかかわり
(1) 赦すかどうかは相手の態度には関係ありません。
「相手が謝罪したり反省したら赦せる」というのは、一見合理的に見えますが、赦すかどうかの決定権を相手にゆだねてしまうことになります。そうすると境界線が引けなくなります。赦しと相手のあり方は別問題です。
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(2) 必ずしも相手に告げる必要は無い。: これまで見たように、不義は私たちの人生を支配しますが、私たちを解放するのは神様であり、その手続きは神様との間の関係でなされるものです。ですから、たとえば機能不全の家庭で育ったからと言って、親の前に行って「あなたを赦します」と宣言する必要はありません。
その理屈はB-004「コミュニケーション」の<20>で「謝罪は必要ない」に共通する面もあります。
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ただし、不義からの解放の場合は、罪を犯すケースとまったく同じではありません。癒しの過程としてのステップのひとつなどの何らかの理由で当事者と対峙する必要が生じることもありうるでしょう。
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■カウンセンラーの必要性: これらの過程を1人で行うのは難しいので、傾聴やカウンセリング等の助けを受ける事を勧めます。心の痛みを見るのは辛いので、心の整理の段階で問題を取り残す可能性があるからです。
書籍を読んだりして癒しの知識を得ることは大いに助けになるでしょうが、そもそも心に整理がついていなければ核心を取りこぼしたりする可能性があります。
教会というコミュニティーの中で信頼できる特定の人に個人的に関わっていただき話を聞いていただくことは大きな助けになることでしょう。
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■プロによるカウンセリング :  それでも教会の中で行われるカウンセリングにも限界があります。
そういった中、プロからカウンセリングを受ける事はオーダーメードの時間なのでその他の手段よりも何十倍も効果があると思います。もちろん1回の料金で本が何冊も買えるほどのお金がかかりますが、それでも、
一回受けるだけでも、心の中の交通整理ができるのでその後のプロセスが効果的になる可能性があります。
ですから、何度も受けなくとも、コミュニティーの中での癒しと併用するという方法もあるのです。