JP−A-A−1 中級編 Aグループ 旧約聖書概論  (第1) 旧約聖書 雛形
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聖書箇所:(ヘブル8章)(ローマ15:4)(1コリント10:11)
A
新約聖書に出てくる「聖書」という言葉は全て旧約聖書のことです。その時代は旧約聖書しかなかったからです。新約の聖徒たちはみな旧約聖書からイエスを理解し救いを理解しました。ですから旧約聖書を理解することは重要です。旧約聖書は聖書そのものだからです
B
旧約聖書は4つの部分に分類できます。
(1)モーセ五書(律法の書)   創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記 
(2)歴史書                    ヨシュア記、士師記、ルツ記、サムエル記 列王記 歴代誌、エズラ、  ネヘミヤ、エステル
(3)詩、歌、知恵              ヨブ記、詩篇、箴言、伝道者の書、雅歌
(4)預言書    (大預言書)    イザヤ、エレミヤ、哀歌、エゼキエル、ダニエル書
                (小預言書)    それ以外の預言者の書
C
● 旧約聖書は歴史的事実が書かれている。
「聖書の記述に基づいて発掘したところ、その通りの場所にその通りのものが発見され、それが歴史的事実であったことが確認される。」ということが考古学の世界では頻繁に起こっています。
これまでのところ、聖書に書かれた内容で歴史的事実に反すると結論付けられたものはありません。(もちろん、事実証明保留の事柄はたくさんあります。)
D
●旧約聖書は霊的な事柄の影である。
(ヘブル8:5)に「写しと影」という言葉に現れているように旧約に出てくるさまざまなものは新約聖書に出てくるさまざまなものの雛形を表しています。
代表的なものは次のようなものです。 「油」=聖霊。  
「小羊のいけにえ」=イエスキリストの犠牲。
「神殿、幕屋」=キリスト。 (キリストの身体として)教会をあらわしている。
E
気をつけなければならないのは、ひとつの事柄が象徴しているものはひとつだけではありません。何かひとつを学んだときにそれ以外は受け入れられなくなってしまっては、聖書の解釈の幅が狭められてしまいます。
F
●旧約聖書は霊的な事柄と実際的な事の意味を持つ
たとえば、イスラエルの民の出エジプトは、人が世から脱出して救われることの象徴です。(葦の海を渡ったのは洗礼の象徴です。(1コリント10章))
G
●ある出来事が別の時代の二重、三重の意味を持つ
聖書の記述は当時のこと、未来のことについて書いています。
イザヤがイスラエルの民の帰還について語った(イザヤ40:4など)のはバビロン捕囚の帰還についてですが、世の終わりのイスラエルの再建に関する預言でもあります。
H
●(重要なポイント)
「旧約聖書の記述は、現在の私達の生活における霊的な事柄の象徴である。」
このことをしっかりと心に留めていただきたいと思います。これを理解できるかどうかで聖書に対する理解がまったく異なってしまいます。
I
たとえば、旧約聖書でたくさんの人が死にます。
それにつまずく人がいるかもしれませんが、それが霊的な雛形であることがわかればそのよう心配はいりません。これらは実際的な出来事を通じて霊的な原則を教えるためです。今日霊的な戦いがありますが、霊的な原則それを教えるための雛形として教えるために、実際的な戦いについて記されています。
J
(出エジプト17:10-11) ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。
K
これは、信仰の戦い、霊的な戦いにおいて私達は祈り続けなければならないことを教えています。ですから、今日神は人が死ぬことを願っていません。旧約聖書に書かれた多くの、戦い、悲劇、その他の出来事は私達を教えるためだからです。それは次の聖書の言葉もそういっています。
L
 (1コリント10:11)これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。
M
ですから、イスラエルが武力によって他民族を追い出したという記述がありますが、だからと言って今日、信仰の名の下で、武力によって他の国を侵略してもよいという理由にはなりません。
N
●聖書の記述は回復の物語
アダムとエバは食べてはならないといわれた実を食べたことによって神との契約を破ってしまいました。
(支配権の喪失については「@-F-03」に言及しているのであわせてご覧ください。)
神はアダムに地上の全ての支配権を与えていましたが、アダムがサタンに聞き従い神に反抗した時点で、彼の持っていた支配権はサタンに移ってしまったのです。
O
この支配権は十字架の死と復活によってイエスキリストが取り戻しました。イエスが「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」と宣言されましたが、それを聞いても多くの人はイエス様が支配権を持っているのは当然じゃないかと思ってしまいます。
しかし、そうではありません。人類の創世から4000年経ってやっと取り戻された権威だったのです。
P
聖書全体が語っているメッセージを一言で言うなら、失われた支配権を回復する出来事であり、それによって失った「命の木の実」(創世記3:22)を食べる権利を取り戻し永遠に生きることにあります。
Q
けれども、神がその計画を実行させる際にすべての人を一度に教えたり救うわけではありません。神の御業はつねに一人の人、一部のグループ、一部の地域から始まります。
R
その回復の業の最初の人が「アブラハム」であり「イスラエル民族」なのです。
ですから、アブラハムやユダヤ人が神から優遇されているとか、優れていると思うことはありません。
もちろんキリストが来られるまで聖書を守り続けたユダヤ人に感謝することはよいことですが。
S
この「回復の業を一部からはじめる」という主のやりかたは、今日においても同様です。
「基礎の学び@E-2」で見たように、16世紀の宗教改革以来、信仰による救い、聖書を読むこと、水の洗礼、聖霊のバプテスマ、聖霊の賜物の回復などが歴史上起こってきましたが、それらは常に一部のグループから始まり世界に広がりました。
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ですから、何かが自分達から始まらなければならないというわけではありませんが、神がなされていることに遅れをとらないように、心を開いて、他の場所で起こっていることを受け取っていかねばならないのです。
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いずれにしても、神は回復の働きの手始めにアブラハムを選ばれました。
彼はもともと偶像礼拝の町で生まれました。私達と同じように最初から神を知っていたわけではありません。しかし神の選びゆえ、彼の心に真の神を求める心が与えられ神に従ったのでした。
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アブラハムについては5つ後の(A-A-06)のセッションで詳しく見てみたいと思います。
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