JP−A−A−7 中級編 Aグループ 旧約聖書概論 (第7) イサクとヤコブ
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聖書箇所(創世記25章〜32章)
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マタイ22:32 『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」
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神をあらわす名や称号のひとつは「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」です。その意味のひとつは「世代を通じて神は計画を持っている」です。神を信じるとは個人主義の問題ではありませんし、単なる共同体の問題でもありません。世代を貫く神の計画を理解して神の計画の全体像を知るのです。
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アブラハムは信仰の人、イサクは従順な人でした。神が選ぶのはそのような人かと思いきや、三代目のヤコブ・・・その名の意味は「かかとをつかむ」(欺くもの)です。事実彼は、兄の弱みに付け込み、父をだました人間でした。そんな彼でしたが、神の選びのゆえに神の大いなる計画の中に入れられました。
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悪役とされがちの彼ですが、彼にも良いところはあります。彼は天幕に住むものでした(25:27)おそらく家庭の中で親から学び、主を礼拝するものであったのかもしれません。ヤコブが料理をしていたのも(25:29)家事を手伝っていたのかもしれません。エサウは野にいて自己中心的であったかもしれません。
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■ヤコブの選び
ヤコブの行動のすべてが単なる自己中心から出たものではありません。やり方は間違っていましたが、目指していた方向性は、神の御心でもあったからです。
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ヤコブは双子の弟でしたが神は兄エサウではなく彼を選びました。(創世記25:23)
つまり、長子の権利を手にするのは神の御心でした。 彼がスープ一杯で兄から長子の権利を譲り受けたときにも、そのずるさを神は容認し、むしろ、兄を責めました。(ヘブル12:16)
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しかし、だからといってヤコブの行動のすべてがよいわけではありません。
ここが、「神の御心」と「人間の意志、願望」の狭間の部分です。ではどうすべきだったのでしょうか?
G
■ヤコブの過ちは神のタイミングを待たなかった事
ヤコブの過ちは神の時を待たなかったことでした。自分の力とタイミングでそれを行おうとしたことです。
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このような過ちは聖書の中でいくつも見られます。ソロモンの後に王家の家柄でもないのに神はヤロブアムを選び10部族の為の王に選びました(第1列王記11:30)。しかし、彼は神のときではなく人が定めたタイミングに「北イスラエル」の王になりました(第1列王記12:20)。
預言者が語った条件は「私が召したなら(呼んだ時に)王になる」でした(第1列王記11:37)。
I
神のタイミングに従わなかったことによって彼に平安が無く、恐れが生じ(第1列王記12:26)その恐れが彼を偶像礼拝に導きました。
J
どんなに預言や確認、召しがあったとしても、それだけで何者かになれるわけではありません。
大きな召しには忍耐を試されることやへりくだりを学ぶことなどといった訓練が必要だからです。
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■「御心」と「容認」には違いがあることを知ること
結果がよければすべて御心であると考えてはいけません。ヤロブアムが王として選ばれたのはソロモンの息子のレハブアム王の振る舞いが悪かったがゆえに、彼を懲らしめるために彼に対抗する勢力として神はヤロブアムを立てたのです。彼の王位は御心ではありましたが、彼が王になりたがっていたという願い(第1列王記11:37)を利用するという形、すなわち、容認に近いものであったことを知らなければなりません。容認であるなら自分の存在意義を理解し、謙虚である必要があったのです。
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■ ヤコブの過ちに対する刈り取り(time line 36:01)
ラケルと結婚の折りラバンにだまされ姉のレアと初夜を迎え結婚させられてしまいました。旧約聖書でセックスは結婚の契約だからです。その時にラバンが答えた(29:26)の言葉の原文の意味は「下のものが先になることはない。」でした。長男のエサウをだました彼には痛い言葉だったでしょう。
また、ラケルに対してどうして父の言いなりになるのかと責めることもできません。ヤコブも母の言いなりだったからです。初夜でヤコブが「ラケルよ」と呼びかけたでしょうが、それに「はい」と答えたレアを責めることもできません。お前はエサウかと聞かれたときに(27:24)「私です」と答えていたからです。
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(ガラテア6:7) 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。
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■ ベテルでの神との出会い(28:11〜28:22)
エサウから逃げる途中、彼が偶然たどりついた場所はベテルと呼ばれました。その意味は「神の家」です。11節の「着く」はヘブライ語で「パガ」であり、その単語はヘブライ語で「とりなし」を意味する言葉です。とりなしの祈りとは偶然の中に働く神の必然でもあるのです。
P
「天使が上り下りする」とは「天と地がつながった場所」を意味します。それは「主の祈り」(マタイ6:9〜13)にある「祈りの本質」であり、天の霊的な祝福が地にもたらされる場所です。
本人的には後悔と敗北感の只中にもかかわらず、その状態の中で神はご計画を表してくださったのです。
Q
(28:22)で与えられた物の十分の一を全て捧げる誓いをします。それは神への感謝の表れであり、彼の生活が守られる事の取引でもありました。それはアブラハムと同様に律法ではなく自主的な行動でした。
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■ 困難な中にもあった神の祝福
ヤコブは心休まらず、格闘していましたが、それでも神の祝福が彼の上にありました。ヤコブがラバンとの間で「ぶち毛やまだら毛のヤギと黒い羊だけが自分のものとなる」という取り決めをした時に、人間的にいうなら彼は不利でしたが、神は彼を祝福して群れは大きく増え広がったのです。(創世記30:43)
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■ 対峙の時
しかし、そんな彼も過去の出来事に対峙しなければなりませんでした。(32:1〜6)
兄弟のエサウとの再会です。エサウは彼と会うのに400人連れてきていました。どういうつもりだったのかは正確にはわかりませんが一戦交える可能性も考えていたのかもしれません。
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しかし、ヤコブは逃げることはできません。もう十分逃げてきました。
これは私たちの生活にもいえます。過去の出来事は人生の中で処理しなければならないのです。
それが罪であるなら神に赦しを求め。他の人との問題であるなら和解し。心の傷が引きおこす問題への対処は、自分の傷に向き合い、癒しの機会を持つことです。
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(詩篇139:23〜24) 神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。
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神に自分の心を探っていただきましょう。一時の居心地の悪さの後には「とこしえの道」つまり、この今の人生の残りも幸せになることができるのです。もちろん、死後の永遠の命の生活においてもです。
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■ 神との格闘 (創世記32:24〜32)
そのためにヤコブがしなければならないのはまず、神と向き合うことです。
ヤコブは御使いと格闘しました。それは(ホセア12:3)にあるように神自身との格闘だったのです。
この格闘によってヤコブの足の関節がはずされました。それは彼の自我を神が打ち砕いたことの象徴です。
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彼が朝方まで神と格闘したように、私たちもまた、時には長時間(それこそ朝方まで)祈りの中で神を求め格闘する必要があるのです。
この格闘の結果、エサウの心は和らぎ、ヤコブは兄と平和の内に再会することができたのです。
私たちも、問題の解決を願うならまず神の前に出て行きましょう。