JP−A−A12 中級編 Aグループ 旧約聖書概論 (12) 荒野
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聖書箇所:出エジプト記〜申命記
A
荒野の40年間
距離から考えて、本来イスラエルの民は数週間、遅くとも数ヵ月後には約束の地に入ることができたはずでしたが、不信仰ゆえにその地の民を恐れて(民数記13:32)、約束の地に入っていこうとしなかったゆえにその結果彼らは40年間荒野をさまようことになりました。
B
この出来事は神がどれだけ大きな計画を私たちの上に持っていたとしても、私たちの態度が悪いならそれは実現しないことを物語っています。
B
神は不従順なものを罰する冷酷で厳しい方なのでしょうか。そうではありません。それではどうして神は民を荒野に40年間も迷わせたのでしょうか。それには大きくわけて2つの理由がありました。
C
■理由@それは民が自分で選んだことなのです。
(民数記14:2 イスラエル人はみな、モーセとアロンにつぶやき、全会衆は彼らに言った。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。
C
それゆえ神は彼らが願ったとおりのことをされたのです。
(民数記14:28 あなたは彼らに言え。これは主の御告げである。わたしは生きている。わたしは必ずあなたがたに、わたしの耳に告げたそのとおりをしよう。
D
この記述は、私たちが肯定的な言葉を語り、信仰的な言葉を告白することの重要さを表しています。
E
(箴言18:21) 死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。
参考聖書箇所:ヤコブの手紙3章1節〜18節
F
■理由A神が愛であるがゆえ(彼らを守るために)
敵を追い払えれる事を信じれない程度の信仰しか持っていない民は約束の地で生きていくことはできません。ですから神はすぐに約束の地に入れるのではなくモラトリアム(猶予期間)を与えたのです。
G
荒野は確かに厳しい場所ですがしかし食べ物(マナ・出エジプト記16章)は毎日ただで与えられました。また、着物も靴も擦り切れませんでした。
H
(申命記29:5) 私は、四十年の間、あなたがたに荒野を行かせたが、あなたがたが身に着けている着物はすり切れず、その足のくつもすり切れなかった。
I
しかし約束の地ではそうではありません。そこでは食料を得るために次のことが必要で、それ以外の方法ではできないのです。事実、民が約束の地に入った時にマナが降るのがやみました。(ヨシュア5:12)
                                                                                                                                                               J
(1)種をまき刈り取る。 (2)代価を払って買う。 (3)敵から奪い取る。
K
それには信仰が必要です。もし民に信仰がないなら約束の地を与えても民は滅んでしまいます。神は愛であるが故、それを望ます、それゆえ民を荒野においておいたのです。そして40年間養ったのです。
L
■その他の結果的な出来事
民がすぐに約束の地に入れなかったことにより、そのほかにも、いくつかの影響が生じました。
M
(1)奴隷の考え方を持っていない新しい世代が立ち上がった。
約束の地を拒んだ為に20歳以上の人はヨシュアとカレブ以外は荒野で倒れました。(民数記14:29)つまり、約束の地に入った人たちは、エジプトの奴隷根性がしみついていない人たちだったのです。
N
確かに、私達の前進を妨げるのは時折、私達の古い考え方です。もし私達が古い考えにしがみついてるなら、それを滅ぼされることもありえるのです。
O
(2)民の動機が試された
申命記8:2 あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。
P
(3)御言葉の必要性を教えるため
申命記8:3 それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。
Q
確かに、人生の荒野を通るときに私達が学ぶことは神を必要としていることです。
R
■ 荒野での生活
(1)食料は毎日与えられた(安息日以外は)(出エジプト記16:31〜)
天から超自然的に与えられるこのマナは身体のための食物ですが、Pの御言葉にもあるように、それは今日の私達にとって、神がわれわれに御言葉を与えることの象徴でもあるのです。
S
(2)水の供給。
荒野で2度(出17:1〜7と民数記20:13〜)奇跡的に水が与えられた記述があります。どちらも「メリバ」と呼ばれていますが違う場所です。メリバはあだ名であり、その意味は「争い」だからです。一度目は「シナイ山のレフィディムの近く」二度目は「カデシュ・バルネア付近」です。二度目の出来事の時にモーセは主の怒りを買い、これをきっかけとしてモーセは約束の地に入ることができなくなってしまいました。
(21)
(民数記20:10 そしてモーセとアロンは岩の前に集会を召集して、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」 20:11 モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。 20:12 しかし、主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」
(22)
モーセが主の怒りを買ったのは「主を聖なるものとしなかった」からですが、具体的に言うなら詩篇106編にあるように「彼が軽率なことを口にした」ことにあります。
(23)
詩篇106:32 彼らはさらにメリバの水のほとりで主を怒らせた。それで、モーセは彼らのためにわざわいをこうむった。 106:33 彼らが主の心に逆らったとき、彼が軽率なことを口にしたからである。
すなわち、モーセとアロンは「私たちが水を出さなければならないのか」といい、自分を神と同列に置き、民に対して横柄な態度をとったからです。
(24)
会衆の大部分が約束の地に入れなかった理由はその発言によると解説しましたが、モーセとアロンもまた自分の言葉が妨げたのです。
(25)
(3)水は常に与えられていた
荒野で水が出た具体的な記述はこの2つだけですが、それ以外のときにも、水は与えられていたようです。聖書には水を出す岩が彼らに同行していたことが記されています。
(26)
(第1コリント10:4) みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。
(27)
このことからわかることは、、主の恵みと備えは常にあり、私たちに必要なのは、ただ、へりくだり神に目を留めることであることがわかります。