JP−A−A17  中級編 旧約聖書概論 Aグループ  (17) サムエル記
17/11/081/2  ● ■・■

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聖書箇所:第1サムエル記

サムエル記は彼の生涯の記録というよりは彼がミニストリーをした人たちの人生の記録といえます。
A
ハンナは不妊の女で主に激しく求めました。不幸に思える状況でも主への飢え渇きを持つために主は用いられ、その祈りを聞き届けてくださいました。この世には、多くの問題があります。その問題を神様が送るわけではありませんが、その状況を利用して、主はご自身の元に私達を引き寄せられるのです。
B
そのような原則を押さえた上で言いますが、ハンナのケースは特別でした。不妊の原因は「主が彼女の胎を閉じていたから(1サムエル1:5)。」だったからです。これはハンナの息子となるサムエルに主が大きな計画を持っていたゆえに、「生まれた子供を主にささげます」という祈りに導くために、そうなさったのです。
C
では、それはハンナにだけ起こった特別な出来事でしょうか。いや、そうではありません信仰によって神が大きな計画を持っていると信じ、自分をささげるなら、誰であっても主は大きく用いてくださるのです。
D
(第2テモテ2:21)誰でも自分自身をきよめてこれらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち聖められたもの主人にとって有益なものあらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。
E
■自己実現ではない
祈りは自己実現のためのものではありません。私たちが自主性と願いを持つことを神は喜ばれ、そのような願いを主は時々用いられますが(ピリピ2:14)、あくまでも神が主人であることを忘れてはなりません。
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シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは「神は必ず助け出される」と堅く信じていましたが、それと同時に「しかし、もしそうでなくても、(ダニエル3:18)」という信仰を持っておりました。
G
自己実現の為に神を求める人は「しかし、もしそうでなくても」の部分を受け入れることができません。「生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。(ピリピ1:21)」の境地が必要なのです。
H
そのようなわけで、サムエルは幼いときから主に捧げられ、親から離れた生活をしていました。
「こうして彼らはそこで主を礼拝した。(1:28)」にあるように、良いあかしは他の人を礼拝に導くのです。
I
■与えられた立場の権威を行使する
サムエルがした最初の預言は、幼少のときに祭司エリに語った言葉です。エリの息子達は祭司でありながら罪を犯し続けておりました。それによってイスラエル一国が神の裁きの下に置かれようとしているのを見ると、息子達の罪はそんなに大きかったのだと思われるかもしれませんが、実際にはそれが主な理由ではありません。
J
(サムエル記3:12-13)その日には、エリの家についてわたしが語ったことをすべて、初めから終わりまでエリに果たそう。 3:13 わたしは彼の家を永遠にさばくと彼に告げた。それは自分の息子たちが、みずからのろいを招くようなことをしているのを知りながら、彼らを戒めなかった罪のためだ
K
裁きの理由は「祭司エリが子どもを戒めなかった為である。」とはっきり告げています。「エリの家についてわたしが語ったこと(that I have spoken)」とあるように、以前から裁きの預言をエリに与えていたようです。
エリには悔い改めるチャンスが与えられていながら、自分の分を果たすことをしていなかったのです。
確かに口では注意していました(1サムエル2:23)。しかし、懲らしめが伴っていなかったのです。
L
このことからわかることは、私たちは与えられた権威や立場にしたがって、境界線を引き、権威を行使し、時には懲らしめを与えていくことが必要であるということです。
M
■御心とは何か
クリスチャンは御心を求める民です。ですから、主が語られたことを受け入れるべきだと考えます。しかし、神が語る言葉の全てが「神がしたいと願っていること」ではありません。
神が警告を与える理由は私達が悔い改めるためです。ですからサムエルの言葉を聴いたときにエリがするべきことは「その方は主だ。主がみこころにかなうことをなさいますように。(3:18)」と語るのではなく、息子たちを懲戒免職させることだったのです。そすうれば、裁きも取り消されていたかもしれません。
N
■ 奪われた契約の箱
ペリシテ人との戦いが不利になったとき契約の箱が引き出されました。彼らはそれがあると勝てると思ったからです。しかし、それは主への信仰ではありません。お守りを持つようなご利益宗教的な信仰です。
O
驚く事に、400年近くたっていながらペリシテ人は出エジプトの出来事を記憶しており契約の箱を恐れました(4:8)。しかし、それは表面的な出来事であって霊的にはその逆でした。彼らは奮い立ち(4:9)勝利したのです。
P
■エベンエゼル(助ける石)エベネゼル
戦いに敗れ契約の箱が奪われた後、主がペリシテ人を裁き、箱は戻っておりましたが、ベテ・シェメシュ人(イスラエル人)がぞんざいに扱ったために疫病で打たれたのを見て、民は恐れキルヤテ・エアリムに20年間も契約の箱をとどめておりました。それは不毛な20年でしたが、その間、民に霊的な飢え渇きが芽生えました。
Q
■王を立てる
イスラエルの民は「他の民族のように王が欲しい。(8:6)」といいました。これは信仰によって目に見えない神を信じるのではなく、目に見えるものに頼ろうとすることであり、神の御心にかなっていませんでした。
R
とはいえ、(申命記17章14節〜15節)に王を立てる場合の指導があるように、まったく的外れな願いではありませんでした。おそらく、ある時点で神はイスラエルに王を立てることも考えていたようです。
S
■正しい態度であること
では、この出来事をどのように理解すればよいのでしょうか?イスラエルの民が間違っていた点があるとするなら、その動機と、その時期でした。逆に考えるなら、神の御心にそった事柄であっても動機やタイミングを間違えるとそれは御心ではなくなりますし、困難を生じることもあるのです。
(21)
たとえば、イスラエルの民は約束の地に入ることを恐れていました。(民数記14:1-3)しかし、その後、悪いと思い「私たちは罪を犯したのだから、とにかく主が言われた所へ上って行ってみよう。」(民数記14:40)といいました。
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しかし、これは、正しい悔い改めではありません。心が伴っておらず、形だけの従順だからです。それゆえ、それは「主の命令にそむいている。それは成功しない。(14:41)」と言われたのです。
つまり、タイミングを逃すと、そのときにはもうすでに、御心ではなくなっていたのです。
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これは、神が気まぐれで「いまさら遅い」と言っているわけではありません。心が伴っておらず、正しい悔い改めがなされていない霊的状態であっては戦いに勝てないからです。神の民の戦いの力は、武器の種類や兵隊の数ではなく、主への信頼と献身だからです。
(24)
■民が王を求めるときのやり方は正しくありませんでした。
@まず第一に、彼らはサムエルの元に訪れる(主の前にでる)のに、自分の考えを携え、押し付けに行きました。つまり問題の解決を求めに行ったのではなく、主により頼む姿勢を持っていなかったのです。A二つ目にサムエルの弱いところを突いてきました。それはサムエルの息子たちはさばきつかさでありながら悪いことを行っていたことを指摘するような方法だったからです。
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それにしてもどうしてサムエルほどの人が息子たちを健全に成長させれなかったのでしょうか?リーダーと言うものは戦いにさらされているので、そういったことは起こりうることなので、リーダーの家庭の証がなっていないからといって裁くのはよくありません。
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しかし、もし考えうる原因があるとするなら、サムエルは小さいときに親から離れて暮らし、家庭生活と言うものを知らなかったのです。それでも身近に健全な家庭の模範があればよかったのですが、模範となるべき祭司エリの家庭も崩壊していました。これでは、正しい家庭像を知らなくても無理はありません。