JP−A−A18  中級編 旧約聖書概論 Aグループ  (18) サウル
2017/10/101/2  ● ■・■

聖書箇所:第1サムエル記9章〜15章
A
サウルはイスラエル初の王でありながら失敗者として記されています。彼の失敗の原因が何であるかを理解し、そこから学ぶことは私たちにとって大切です。なぜなら聖書が書かれた理由のひとつはそれだからです。
B
にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。(第1コリント10:5〜6)
C
■人物像
彼は長身でハンサム(9:2)でしたが、その外観とは裏腹にコンプレックスという問題を抱えていました。
 (10:22)で王に選ばれたときに「荷物の間に隠れて」いました。彼の働きが小さい内は、そのコンプレックスも目立つことなく、むしろへりくだった姿勢のように見えました。しかし、その自己像の低さとそれをもたらした取り扱われていない過去の傷が彼のミニストリーをだめにしてしまったのです。
D
■時間のテスト
最初のテストは時間のテストでした。これは全てのリーダーが通るテストです。アブラハムも子ども授かるのに25年かかりました。「神の言葉を信頼して待ち続けるテスト」は今でも起こります。そのテスト期間中に、気がそらされたり、誘惑を受けたり、自分の力でそれを行おうとしてしまい失敗してしまう人も多いのです。
E
サウルはギルガルで7日サムエルを待たねばなりませんでしたが、彼が待つことができずに、彼は祭司だけがすることができる「いけにえを捧げること」を自分の手でしようとしてしまいました。
F
このときのサムエルの反応(13:13-14)は厳しすぎるように見えるでしょうか?確かにそう見えるかもしれません。これだけ見たら、神の御心を行い間違いを犯さないなど到底不可能に見えるかもしれません。
G
しかし、それはポイントが違います。神の願いは私達が間違いを犯さないようにすることではありません。もちろん、それができれば最高でしょうがそれは不可能です。神が求めている事は悔い改めることなのです。
このときにサウルが心から悔い改めたならサムエルは即座に赦しを宣言されたことでしょう。
H
■ダビデの場合
それが証拠に、ダビデが心から悔い改めたときにはサムエルは即座に赦しを宣言されました。ダビデもまた訓戒を受けましたが、彼の反応はサウルと正反対でした。
第2サムエル12章13節で、彼の罪が示されたときに、彼は、即座に悔い改めました。詩篇51編はそのときの彼の心の状態をつづったものです。彼は本当に悔い改めたのです。
I
19節もの悔い改めの詩をダビデはどのようにして作ったのでしょうか?その章の前文に書かれた説明によると、それはナタンに罪を指摘されたときでした。つまり、彼の心からの悔い改めが自然に口からあふれ出たことを意味します。それはまた、聖霊の力、聖霊の油注ぎによる罪の告白と悔い改めでした。
J
間違いを犯すときに、私達に必要なのは、聖霊の力であり、それをもたらす「砕かれた心です。」(詩篇51:17)。そのつど、悔い改め神に心を向ける人の罪を神は赦し、赦すだけでなく忘れてくださるのです。「すべての罪を海の深みに投げ入れてくださる方」(ミカ7:19)なのです。
K
■恐れ
彼の過ちの動機は「恐れ」でした。それは(13:11)で「民が私から離れ去って行くのを見たので・・・」という言葉からわかります。誰でも恐れや自信の無さを持つこともあるでしょうが、コンプレックスがあるなら、その他の多くの過ちの温床となるのです。
L
■恐れが不従順をもたらす。(15章)
彼がアマレクと戦った際にも、恐れが彼を不従順にさせました。主はアマレクとすべて滅ぼすようにと語ったにも関わらず「民は羊と牛の最も良いものを惜しんだ」(15:15)とあるように命令を実行できませんでした。
M
その理由は民の願いを聞き入れたからです。「民の願いを聞く」というのは、一見「優しい人」にも見えますが、実際の彼の動機は「民から拒絶されることを恐れた」のです。
N
■いいわけ
人が罪を犯すときに何らかの言い訳をしますが、彼の言い訳は「主に、いけにえをささげるため」(15:15)という一見霊的な言葉です。しかし、神は牛や羊を欲しているわけではありません。従順であることが神への最高のいけにえです。
O
旧約聖書に書かれたそのような動物のいけにえは来るべきイエスキリストの雛形に過ぎません。彼がささげるべきものは砕かれた心であり、砕かれた心という土台の上にささげものをするべきだったのです。(詩51:17)
P
■高慢
コンプレックスを持っている人は、それを隠すために、自分を立派に見せようとし、時には高慢になります。第1サムエル15章12節で戦いの後「記念碑を立てた」ことからわかります。
Q
この出来事は低い自己像と高慢は同じ根であることの表れです。へりくだりと低い自己像は、働きがまだ小さい内は見分けが難しいのですが、活躍しだした後に、高慢という形で現れることによって、わかります。
R
■魔術と占いをもたらす。
(第1サムエル15:23) まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」
S
占いというのは「真の主人である神」の声を聞くのでなく「他人である悪魔」の声を聞く行為です。
また、不従順というのは単なる心の状態だけではありません。それは偶像礼拝をもたらすことから霊的なことであることがわかります。ヤロブアムが偶像礼拝に走ったのも人々が自分から離れていくことを「恐れ」たことが原因でした。(第1列王記12:26〜29)
(21)
■反省と悔い改めの欠如
サウルは叱責をうけましたが、世間づらを良くするために、「サムエルに一緒に帰ってください。」と願いました。(15:25)訓戒を受けたときに私たちがするべきことは、反省し悔い改めることです。しかし、この期に及んでサウルは世間体を気にしていました。このことがより悪い結果をもたらしました。
(22)
すなわち彼は王位から退けられたのです。(15:28)
(23)
これは、本当に多くの人が犯しがちな過ちです。そもそも叱責や訓戒の意味を理解していないのです。叱責や訓戒はその人に不適格の烙印を押したり拒絶するものではありません。その人をふたたび立ち上がらせて、回復させるためのものです。にもかかわらず、彼は訓戒を受け入れませんでした。
(24)
それが彼の王位を退けられた理由です。罪を犯したからでも不従順だったからでもありません。それはきっかけとなりましたが、その後どう反応するかが私達の運命を変えるのです。
(25)
■拒絶への恐れ
彼に悔い改めの欠如をもたらしたのは、低い自己像からくる拒絶への恐れだったのです。
(26)
■宗教的なサウル
ペリシテ人との戦いは不利でしたが、息子のヨナタンの活躍で逆転しかけました(14:15)。そんなチャンスにもかかわらず、彼は宗教的になり断食を布告しました。そしてヨナタンが危機的な立場になってしまいました。
(27)
彼が行った罪人を察知する方法は(14:41)でした。それは自分が王に就任したとき(10:21)のように「くじ」を用いましたが、実際にはいんちき占いでした。なぜなら確立は4分の1でしかないからです。またそれは、もし自分が当てられても、自分を殺す事はなかったであろう偽善的な行為です。