JP−A−A22 中級編 旧約聖書概論 Aグループ  (22) 礼拝者の心得
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前回も「賛美がいけにえ」であることを見ましたがその続きです。
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■いけにえとしての賛美
(ヘブル13:15) ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。
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賛美をすることは基本的には楽しいものです。聖霊が強く働くときには全身全霊で捧げる賛美によって心から主を喜び楽しむことが出来ます。
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しかし、時には、それほど乗り気にはならないときもあることでしょう。歌は歌うけれど、手拍子をするのが精一杯で踊って賛美しようとまでは思わないこともあることでしょう。
しかし、賛美がいけにえであることを知るなら、たとえ、気分が乗らなくても、それをするのです。
そうするうちに、湧き水の小さな流れが、あつまり徐々に小川となるように聖霊が働き始め、私たちを心からの賛美礼拝へと導くのです。
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ダビデは亜麻布のエポデをまとったまま主の前で歌い踊り力の限り賛美しました。重量があったのでそれは彼にとって犠牲でした。後にそれを脱いで半裸で主の前で踊りました。人目を気にするよりも主を尊ぶ彼の姿勢は全てを捧げる礼拝者の模範でもあります。
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■自分自身を捧げること
そのようなわけで、賛美を捧げることはいけにえという側面もあるのですが「賛美という形でいけにえを捧げているので、十分捧げている」「いまや主に捧げるべきいけにえは賛美だけでいい」と理解するとしたらそれは行き過ぎたことです。
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というのも、いけにえをささげること(すなわち自分自身をささげること)が「賛美をすること」にとって代わってしまったわけではないからです。
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音楽は基本的に楽しいものですし、その奉仕も目立つ上に満足感も大きいでしょう。それで、その奉仕に仕える人が高慢になったりする問題も時折見られます。その問題の原因はさまざまでしょうが、ひとつ顕著な問題は「自分自身を神に受け入れられるささげものとして捧げていない」こともあることでしょう。
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(ローマ12:1〜2) そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。 12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
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■ イエス様が模範
(ヘブル10:5 ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。
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イエス様が人として地上に来られたこと。全能の神が人と言う制限の中にご自身を置かれたこと。人と同じようになり重荷や苦しみを背負われたこと(イザヤ51:1-5)それら全てが礼拝行為でした。
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バテシェバとの姦淫の一件は、どんなに聖霊に満たされた礼拝者であっても罪を犯し、それを1年以上隠すことも可能であることを意味しています。ですから礼拝者は常に自分自身を吟味する必要があります。
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■ 霊的な覆いやメンターを持つ
そのためにも、自分の心を言い表すことが出来るメンターやコーチと呼ばれるようなアカウンタビリティー(説明責任)のある関係を持つことは大切です。
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豊田信行先生が自分のメンターに言われたことばは「私が存在する理由は、誰もあなたに尋ねないような質問をすることです。」でした。「夫婦の関係はうまくいっているのか? 何かに誘惑を感じてはいないか?」というような質問についてです。
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■ 日常生活の普通の行動も大切である。
霊的状態は、日常生活の振る舞いの中に現れてきます。逆に言うなら、日常生活を正すことによって、ある程度、霊的な領域も整理がついてきます。
岡田家で祈りの家が始まったひとつの理由は、台所と居間の床を張り替えて模様替えをしたことにあります。環境という器が変えられるときにその中身の霊も新しくされたのです。
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■徐々に心が曇らされたダビデ
ダビデは主の臨在を追い求め四千人の賛美奉仕者を建て上げ(第1歴代誌23:5)預言を聞くこと(第1歴代誌25:1)など目立つ働きを建て上げることに熱中しておりました。契約の箱を前にして賛美を捧げて、主を礼拝していましたが、しかし、いけにえを捧げるという地味な礼拝は祭司達に任せておりました。
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(第1歴代誌16:39-40) 祭司ツァドクと彼の兄弟である祭司たちを、ギブオンの高き所にある主の住まいの前におらせ、16:40 全焼のいけにえを、朝ごと、夕ごとに、絶えず、また、すべて主のイスラエルに命じた律法に書かれているとおりに、全焼のいけにえの壇上で、主にささげさせた。
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それは、彼自身の生活の中で自分を捧げ、犠牲を払うこと、主を第一とすることから外れてしまっていったことの現われでした。
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そのことが表面化された一件はそういった中で起こったのが「人口調査」により罪を犯した一件です。(第2サムエル24:1〜)人口を数えることによって神に信頼するよりも人の力に信頼したダビデに対して主は裁きを与えました。
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(※)ただし、人口を数えることそのものが罪というわけではありません。王が国を治めるために人口調査をすることは理にかなっていることだからです。問題だったのはダビデの動機でした。
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悔い改めたダビデに対して主が命じたことは「いけにえを捧げること」でした。
この出来事は、臨在、賛美、預言に浮かれていたダビデに信仰の基本である「自分の心を砕き」(詩篇51:17)自分自身を捧げることへ引き戻したのです。
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■ 砕かれた自分という捧げもの ■
(詩篇51:17) 神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。
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■失敗が益とされる■
これを通じてダビデは、それまで誰も注目していなかった変哲も無いただの高台であった「アラウナの打ち場」(麦の穂を打つ場所)に祭壇を作りましたが、実はそこは世界でもっとも重要な場所だったのです。
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(第2歴代誌3:1) こうして、ソロモンは、主がその父ダビデにご自身を現わされた所、すなわちエルサレムのモリヤ山上で主の家の建設に取りかかった。彼はそのため、エブス人オルナンの打ち場にある、ダビデの指定した所に、場所を定めた。
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この場所こそ、アブラハムが息子イサクを主に捧げた場所(創世記22:1〜)であり、主が神殿建設の場所として指定した場所だったのです。(第2サムエル7:2〜)でダビデが張り切って神殿建設を考えていた時点ですら神殿を建てるべき場所を知らなかったのです。
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ダビデが犯した罪によってこの場所が啓示されたというのは驚くべきことです。
このことから何が言えるでしょうか?このことから「主はすべてを益とされる」ということです。ですから、私たちは失敗を恐れることはありません。彼の人生にとって最悪の裁きだと思える出来事の中にあっても、最高の啓示が隠されていたからです。