JP−A−A26  中級編 旧約聖書概論 Aグループ  (26) 箴言・伝道者・雅歌
2018/01/291/2 ● ■・■

聖書箇所:箴言、伝道者の書、雅歌
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■箴言
日本語で言う箴言という言葉の意味は格言です。ヘブライ語ではミシレイ(mishley)といい、比較することば、類似することば、支配することば、などの意味があります。
A
(箴言1:7) 主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。
B
これは箴言全体を貫いている骨格となる言葉です。どのような知恵も知識も主への恐れがなければ、意味をなしません。多くの人は人生に導きや、決断のヒントを求めて聖書を開きます。それは悪いことではありませんが、忘れてはならないのは、神を恐れるという土台に立って聖書を開く必要があるということです。
C
たとえば、結婚相手を探すにあたって、必要なことは相手探し以前に、自分の人生を通じて神が何をなさろうとしているのかを知ることです。「宣教師になろうとしているのであるなら、異文化に寛容であったり外国語ができる、あるいは覚える気がある人を選んだほうがよい。」といえばわかるでしょう。
D
そしてまた、それ以前に必要なことは、神ご自身を知ることなのです。
E
■伝道者の書
タイトルは「伝道者」となっていますが、教会の五役者の一人の伝道者を意味するのではなくではなく、(新共同訳)ではコヘレトとなっており「会衆を集めて律法を教える人」のことです。
F
この書の作者はソロモン王だといわれています。富と、権力と、知恵と健康、およそ人が求める全てを手に入れたソロモンでしたが、人生の晩年における彼の感想は「空の空」すなわち「むなしい」ということでした。
G
そのようなわけで、普通に読むと、人生にむなしさを感じている人のぼやきにしか聞こえないかもしれません。
しかし、栄華を極めたソロモンが語るのであるなら、この世のものにより頼んではならないという聖書の言葉が真実味を帯びてきます。
H
私たちが、この書の読み方を悟る大きな鍵のひとつは、「日の下では」という言葉です。それはすなわち「地上的な視点で見るなら」という意味です。滅び行くこの世に望みを置くなら、何を見てもむなしくなるのは当然のことです。
I
たとえばこの「 実に、日の下で骨折ったいっさいの労苦と思い煩いは、人に何になろう。その一生は悲しみであり、その仕事には悩みがあり、その心は夜も休まらない。これもまた、むなしい。(伝2:22-23)」という言葉は、ある意味人生を言い当てているものです。
J
しかし、そのような人生のむなしさはどこから来るのでしょうか?それはまことの造り主から離れて生きていることにあります。神との出会いによって人は心が満たされるのです。
K
よちよち歩きの子供にとって親と一緒にいるのが一番楽しくて幸せです。どんなに貧しい生活環境にあってもそれはほとんど関係ありません。
そのように、究極を言うなら、神に目を向けることが本当の意味で人に満足を与えるのです。
L
そして、神と共に歩むときに、苦しいように見える生活の中にも神の御手があることがわかります。
M
逆に考えて「日の下では・・・」ではなく、「天では」すなわち「神的な視点を持つなら」「霊的な視点を持つなら」と置き換えるなら人生観がまったく変わってきます。
N
つまり、同じ事柄を見たとしても、自己中心的な視点で見るか、神の視点で見るかによってまったく結論が違ってくるということです。
O
ソロモン王の治世以後王国が分裂してしまったことを考えるなら、ソロモンの人生は後代にまで悪影響をもたらせた悪いものであったといえます。そして、その、彼自身が人生を振り返って晩年に語った言葉がこれであるということには考えさせられます。
P
(伝道者12:13) 結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。
Q
もっとも高い代価を支払う教えは「自分の失敗から人生の教訓を学ぶこと」です。もちろん、神様は全てを益としてくださるので、たとえ代価を払っても学ぶことができるならそれは良いことです。しかし
もっとも安い代価を支払う教えは「他人の失敗から学ぶこと」であることを心に留めてください。
R
「神を恐れ、神の命令を守る。」その結論を悟るために大きな失敗をする必要はありません。
S
■雅歌
雅歌は男女の恋愛の歌です。これもまた、ソロモン王が作者であるといわれています。
(21)
官能的な表現を多く含んでいるので、この箇所だけは読まないというクリスチャンがいますし、まったく、語られない教会もあります。たしかに、官能的という意味においては叙事詩形式をとっているのではっきりとは見えませんが、多くのメタファー(隠された意味)を持っており、それを理解するなら、実際に読む印象以上に性的、官能的な表現を含んだ書です。
(22)
ですから、多くの人はどうしてこの書が聖書の正典のひとつに数えられているのか理解に苦しみます。
しかし、それは伝統的なキリスト教的な世界観、すなわち禁欲的な世界観で読んでいるからです。
伝統的に、キリスト教では「神のために独身でいるものもいる」という考え方ですが、ユダヤ教では「産めよ増やせよ、地を満たせ」という世界観です。
(23)
ユダヤ教ではエッセネ派といったごく一部に禁欲的なグループもありましたが、一般的には結婚することが基本であり、彼らの経典であるタルムード(賢者の知恵の書)には「性的快感を伴わないセックスは罪である」と書かしめるほど性に対してオープンな宗教なのです。
(24)
そのような性的な書ですが、この書から数多くの霊的な教えを受け取ることができます。もっとも代表的なのは神と人との親密な関係を知ることでしょう。
(25)
(エペソ5:31-32) 「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。
(26)
この言葉にあるように、夫婦の関係は「キリストと教会の関係の雛形」なので、少なくとも他の誰も間に入れないほどの親しい関係を神と築くことができることがわかるでしょう。
(27)

神は三つでひとつという形でご自身を表されました。それは私達の知性では全てを理解することができませんが、少なくともそれによって、さまざまな角度から神について知ることができます。
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神はまず第一に私たちの父です。愛を与え、保護を与え、教え、戒めるそのような方です。私たちは父との関係だけで、全てを満たすことができます。キリストは父との仲介者(ヨハネ14:6)ですから彼を必要としていますが、キリストは単なる通路ではありません。
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この方によって、「花婿と花嫁の関係」という視点で神を知ることができるのです。親子関係はどんなに親密であっても、父が子に全てを告げることはありえません。しかし、キリストと教会の関係は違います。(ヨハネ15:15)