JP−A−A32  中級編 旧約聖書概論 Aグループ  (32) エゼキエル書
19/02/211/2  ● ■・■

聖書箇所:エゼキエル書

エゼキエルは祭司(1:3)でしたが捕囚の地バビロンで召しを受けます。というのもバビロン捕囚は何度かあり、をの時はエルサレムは陥落しておらずまだユダヤには民が住んでおり、神殿もありました。(最後の王のゼデキアの(傀儡統治は11年)つまり、その時代はまだ民は本当に危機を感じておらず彼の預言は嫌われました。

エゼキエル書の1章全体はほぼ不思議な四つの生き物の描写です。この生き物は10章を見るならケルビムという御使いであることがわかります。また、黙示録4章にも似たような生き物が登場します。
黙示録4:8に登場する時には「聖なるかな、聖なるかな・・」と主を賛美し続けたことにあるようにイザヤ書6:3に登場するセラフィムにも共通するものがあります。いずれにしても彼らは位の高い御使いです。

ケルビムは契約の箱を覆っている贖いの蓋《なだめの蓋》の上の向かい合った2つの御使いの像として旧約聖書に登場します。セラフィムはイザヤ書6章にだけ登場する御使い  でその意味は「燃えているもの」確かにイザヤ書6章7節で祭壇の上の燃える炭火を持ってきてイザヤの口をきよめました。また、それと民数記21章に書かれたモーセが造った「燃える蛇」と同じ言葉であることについてイザヤ書の学びの中で説明をしました。

◆預言者の責任
3:17 「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。 3:18 わたしが悪者に、『あなたは必ず死ぬ。』と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪者に悪の道から離れて生きのびるように語って、警告しないなら、その悪者は自分の不義のために死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。
同じような御言葉が18章、33章にも登場します。

◆預言的行動
エゼキエルは言葉だけでなく自分の行動をもって預言する「預言的行動」と呼ばれるスタイルがあります。
たとえば、「ミニチュアのエルサレムを包囲する(4:1)。横たわる(4:4〜)。糞でパンを焼く(4:12〜)。ひげをそり計る(5:1〜)。壁に穴をあける(8:8)。荷物を背負って移動する(12:3)」などです。
エレミヤ書27:2でも「あなたはなわとかせとを作り、それをあなたの首につけよ。」という言葉が登場します。

◆偽預言者に対する警告
14:9 もし預言者が惑わされて、ことばを語るなら、――主であるわたしがその預言者を惑わしたのである。――わたしは彼に手を伸ばして、わたしの民イスラエルのうちから彼を根絶やしにする。

エレミヤ書でもそうでしたが、イスラエルに対して楽観的な預言をする偽の預言者が何度か登場します。彼らが間違えたのは主から出たものであることは興味深いものです。

◆婚姻に例えられたイスラエルと神との契約
16章にはエルサレムを擬人化してイスラエルの状態についての主の言葉があります。この御言葉は、夫婦のセックスが結婚の契約であり、聖なるものであることがわかります。

16:8 わたしがあなたのそばを通りかかってあなたを見ると、ちょうど、あなたの年ごろは恋をする時期になっていた。わたしは衣のすそをあなたの上に広げ、あなたの裸をおおい、わたしはあなたに誓って、あなたと契りを結んだ。――神である主の御告げ。――そして、あなたはわたしのものとなった。

◆とりなし手に対する言葉
22:30 わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは、この国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった。 22:31 それで、わたしは彼らの上に憤りを注ぎ、激しい怒りの火で彼らを絶滅し、彼らの頭上に彼らの行ないを返した。――神である主の御告げ。――」

とりなし手に対する神の失望はイザヤ書にもあります。
イザヤ59:16 主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。 (注:とりなし=(ヘ)PAGA)
◆ツロに対する預言(26章〜)このツロは28章の記述を見ればわかるように、サタンの描写になぞらえています。サタンは元御使い(神の側)であったように、ツロの王はダビデの友で神殿建設にも力を貸しました。つまり、ツロは神の側ものもが裏切り反逆することを象徴しています。

◆ 偶像礼拝が行われる神殿
8:10 私が入って行って見ると、なんと、這うものや動物のあらゆる形、すなわち忌むべきものや、イスラエルの家のすべての偶像が、周りの壁一面に彫られていた。

エゼキエルが主に導かれ神殿の壁に穴をあけて見ると、そこでは偶像礼拝が行われておりました。また8章16節では「彼らは【主】の神殿に背を向け、顔を東の方に向けていた。東の方を向いて、太陽を拝んでいた。」とあるように太陽を拝むばかりか神殿にそむく礼拝がなされておりました。

その結果主は8章17節〜18節にあるように。「ああれみをかけず、惜しまず、彼らの言うことを聞かない。」と宣言されました。

◆ 神の栄光が去った神殿
10章に描かれた記述を一言で言うなら、神殿から神の栄光が去ったということです。それには段階があり、
[1]神殿の敷居
10章18節 「【主】の栄光が神殿の敷居から出て行って、ケルビムの上にとどまった。」
[2]宮の東の門
10章19節 「すると、ケルビムは翼を広げて、私の目の前で地上から上って行った。出て行くとき、輪もそのそばについて行き、【主】の宮の東の門の入り口で止まった。イスラエルの神の栄光が彼らの上にあった。」
[3]オリーブ山の上
11章23節 「・・・【主】の栄光はその都の中心から上って、都の東にある山の上にとどまった。」

Cそして、主の栄光が天に昇り離れてしまいました。

この記述で主に対する畏れが生じることは、主の栄光が宮を離れる直前には、(10章4節)にあるように、「 【主】の栄光がケルビムの上から上り、神殿の敷居に向かった。神殿は雲で満たされ、また、庭は【主】の栄光の輝きで満たされた。」という状態であったということです。

単にその光景だけを見たなら、神の栄光のリバイバルが訪れたと感じたことかもしれません。しかし、真相はその真逆の状態であったということです。
つまりそれは、神の栄光の臨在を感じたとしても、それは、神の栄光が去るときであったのかもしれないということです。
その後、神の栄光は同じような形で神殿には戻ってきておりません。
もちろん、その後、70年たってから神殿は再建されましたし、その後、ギリシャに支配されていたときにもハヌカの奇跡に見られるようにメノラの油が尽きなかったというような奇跡も起こりました。そういった意味においてはバビロンからの帰還も神殿の再建も主の御心の中で行われたことです。

けれども、その「中間時代」と呼ばれる中途半端な時代は、旧約聖書に書かれた全ての雛形の本体であるキリストを迎えるまでの中途半端な時代に過ぎないということも心に留めておく必要があります。

47章では後の時代に回復した神殿から生ける水の川が流れる様子が描写されています。
それはゼカリヤ書14章に書かれた(今の時代の)最終戦争のさなかにキリストが再臨され、オリーブ山の上に立たれ、敵を撃退された後、千年王国が始まるときに起こる出来事です。

このエゼキエル書の最後は来るべき時代の新しい神殿とその町の描写で終っています。
その町の名前は「主はここにおられる」(48:35)です。