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奉仕について

最小限であり自由意思に基づく奉仕

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私たちの教会では必ずしも必要ではない事柄は極力排除しております。それゆえ教会の運営を支えるために必要とされる奉仕も最小限で済みます。また、わりと人数がいるので一人一人の奉仕も最小限で負担はありません。ですから管理したり教え導く立場の人でもなければ平日の奉仕はありません。

平日の日常生活が本番である

忙しくなりすぎないようにしている理由は、私たちはライフプレイスミニストリーとして活動をしているので、教会員のミニストリーの本番は平日の日常生活にあると考えているからです。

奉仕は礼拝行為

奉仕が少ないのですから、誰かに無理やりお願いする必要もありません。ですから全ての奉仕は自由意志に基づいて行われます。奉仕とは神さまへの礼拝行為の一部であると考えているので、持続可能でよろこんでできる量であることは大切だと考えます。

奉仕をしていない人が引け目に感じることはない

私たちが大切にしたい雰囲気の一つは、奉仕をしていない人が引け目に感じないようにすることです。奉仕をしているから偉いとか、より霊的であるという雰囲気は全くありません。

自由に休める環境

賛美リードやメッセージを語るといった重要な奉仕を担当したとしても、自分の為や、運動会や親せきに集まりなどのために礼拝を休むことはまったく問題ありません。
そういった教会外での活動をすることはまだ神様を知らない人に接する機会であり、神の御国の価値観を伝える良い機会だと考えています。また、休みを与えることは普段奉仕をされている方に対してねぎらいと感謝を受け取っていただく機会でもあります。

機会を生かして用いる
そして人員に欠けが生じた機会は他の人にやらせてみることによって、その方を建て上げるためのチャンスとなります。

失敗やうっかりが許される環境

もう一つ大切なことは、失敗やうっかりといったことが容認される雰囲気があることです。誰かが失敗したり遅刻したからといって、責められることはありません。

教会には多くの通訳者がおります。彼らは人前に立ってうまくできないことを恐れてはいません。なぜなら、誰の目も気にする必要がない雰囲気があるからです。

奉仕者への感謝

そのようにしている理由は、基本的な姿勢として、奉仕をしてくださっている方々への感謝の気持ちを持っているからです。

奉仕者の訓練とライフプレイスミニストリー的な考え方

世に出て証となることができるように、教会で奉仕を通じてきちんと訓練されるべきだと考える教会もあることでしょう。それは良い考えかもしれませんが、私たちはライフプレイス(仕事や学校、生活の場)が私たちのミニストリーの本番だと考えておりますので、態度が悪くて社会で通用しない人がいるなら、その人は社会で失敗して訓練されればよいだけのことです。

その反面、教会という場所は全ての人がリラックスできる家族のような場所であるべきだと考えます。ですからそこでの育成は社会とは別なのです。

心の動機や態度が重要

もし、私たちが誰かを訓練するとしたら、それは、良い動機を持っているとか高慢でないなどといった心のありかたに対する部分でしょう。しかしだからといって、奉仕活動の主要な目的は人を良い人に作り変えるためではないので、心の態度が良くないのであるなら奉仕をしていただく必要はありません。

逆に、心の態度が悪いなら、その状態を生み出している心の傷が癒されたり、問題を複雑にしている低い自己像が高められる為に何らかの方法で手をさし伸ばしたいと考えています。

奉仕を通じて建て上げる

私が心掛けていることは奉仕をする人がそれによって祝福を受けることです。これについては先の「祝福して益を与える」に書いたことにも通じます。

特別な人を作らない

私たちは特別な人を作らないように心がけています。私たちの教会ではレギュラーメンバーとして賛美リードをする人が5人、予備の人が3人います。そして彼らは月に1回しか担当しません。牧師が礼拝メッセージを語るのは月に2回だけで、別の日はその他の人たちが語ります。

それは負担を減らすためとという意図がありますが、その他にも、その人でなければ礼拝が成り立たないという状態を作らないようにするためです。誰かに集中してしまうと疲れますし、また人によっては高慢になったり、自分が重要人物であると錯覚して他の人を裁いたりしてしまうかもしれません。私たちの教会には特別な人がいないのです。

最高の人が最高の奉仕をする必要はない

私たちの教会には幾人もの通訳者がいますが、みんなが上手にできるわけではありません。それは、他の人にもどんどん機会を与えるからです。彼らは失敗してもよい、うまくできなくても大丈夫だということを知っているので、チャレンジすることに躊躇しないのです。

 


ナイチンゲールの言葉

犠牲なき献身こそ真の奉仕

この言葉はナイチンゲールの言葉で「構成員の自己犠牲のみに頼る援助活動は決して長続きしない」という意味で語られた言葉です。 彼女は多大な自己犠牲によって献身的に奉仕したことは有名ですが、その言葉の真意は「犠牲を払って奉仕をする人にはそれに見合う経済的な報酬を与える必要がある」という意味でした。

負担にならない量こそ真の奉仕

上記の言葉は、報酬を得る仕事の事なので、基本的には無報酬の奉仕で成り立っている教会での活動にはあてはまらないと考えるかもしれません。 もちろんそれはそうですが、私たちはその言葉の本質を理解し、奉仕活動に適応するなら「無報酬であるならそれに見合う量の奉仕にとどめておく必要がある」という言葉になると考えております。 つまり、簡単な言葉で言うなら「奉仕者に犠牲を強いてはならない」ということです。

生活を犠牲にする奉仕は長続きできない

奉仕も礼拝の一部であるなら、それは継続できるものであるべきです。信仰や生活のリズムや時間的余裕や体力に応じて奉仕に関わることは推奨されるべきですが、しかし、あくまでも自由意思で選択できるものであるべきなのです。


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