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回復が優先される教会

本来、基本的なアイデンティティティーは家庭で養われるものだがphoto

私たちが人生の土台として持つべきアイデンティティーは「愛され、尊ばれ、受け入れられている」というものです。そういったアイデンティティーは本来、健全な家庭で育つ中で自然に身につけていくものです。しかし、現実としては完璧な親は存在しないので、たとえ親に悪気がなかったとしても人は多かれ少なかれ何か欠けた状態で成長し社会生活を始めていくことになります。

神さまと出会うことによって回復は起こる

成長過程で受け取ることができなかったとしても、神様と出会うことによって心が癒され、アイデンティティーの回復がなされていくケースは多く起こっています。成長過程で受け取り切れなかったものを真の父である神さまとの出会いによって受け取るのです。

とはいってもそうとは限らない現実がある

それは素晴らしいことなのですが、ところが、教会に集ったからと言って健全なアイデンティティーが回復されるとは限らないという現実も時折見かけます。
つまり、たとえば、賛美をすることによって聖霊が働いて人は変わるだろう。メッセージを聞くことによってその人の考え方が変わるだろう。イベントに参加して交わりをすることによって人は教会になじむだろうとしたとしてもうまくいくとは限らないのです。もちろん、そういったやり方のすべてが間違っているわけではありません。しかし、それだけでは多くの取りこぼしがあるのも確かです。

健全な他の人との関係の中で癒される

ですから、私たちは、個人が回復する為にどうすればよいのかを最優先に考えるようになりました。 それについて詳しく書いていく時間はありませんが、たとえばガラテア書6章2節に「互いに重荷を負いあうときにキリストの律法が全うされる」と言う言葉があるように、安全で健全な人との関係の中で神様の霊に働いていただくことが大切であることを学びました。

そういった考え方は聖書的なのかどうか

ヨハネ11章でイエス様はラザロをよみがえらせました。この出来事を私たちが救われたことにたとえることができます。私たちの救いは神さまの一方的は主権によるのです。しかし、それだけでラザロは日常生活に戻れたわけではありません。布で包まれていたからです。ですから、イエス様は周りの人にほどいてやって帰らせるように命じたのです。

また、教会の基本的な考え方や雰囲気も大切である

もちろん、完璧な人はいないので、人による回復にも限界はあります。ですから、人との関りで回復するためには、教会の基本理念や良い雰囲気も大切です。

神さまが働く余地を残しておく
この教会では誰も何かを無理強いさせられることはありません。境界線がたっとばれ、個人の決断が尊ばれます。つまり大人として扱われるということです。たとえ、最も良い選択をしていないように見えたとしても、あるいはそれが失敗だとしても、それを通じて神様が働かれることを期待しているからです。

こういう話をしたときに、メンバーを自由にさせていたらそれぞれが好き勝手にして教会がぐちゃぐちゃになってしまうのではないかと心配する人がいましたが今のところそんなことはありません。 むしろ、のびのびとしてしているように思います。

教会がコントロールするのではなく神様が一人一人に与えた特性やビジョンを尊いものとして理解しているというのも大きな要素だと思います。

 


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