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律法主義的ではない教会

律法主義的でありたい人はほとんどいないにもかかわらず・・・

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新約聖書を見るとイエス様の働きに一番反対していたのは律法学者やパリサイ人でした。イエス様がこの地上に来られた理由の一つはまさにこの律法主義的な信仰から人々を解放するためでした。
それにも関わらず、今日においても教会は律法主義的になってしまう現象をよく見かけます。というかそうなってしまっていることに気が付かない場合があります。

神さまが働く余地を与える

そのようになってしまう理由はさまざまでしょうが、その理由の一つはもしかしたらその人の内に神様が働くことに期待していないということかもしれません。 つまり、行動を制限することによってなんとか道を外れないようにするのです。

聖書が言っていること以上のルールを課してしまう危険
教会がメンバーに対して間違ったことをしないように聖書が言っていること以上のルールを守らせようとすることがあります。それは一時的にはその人を守ることができるかもしれませんが、本当の意味でその人を変えることができるかどうかはわかりません。

もちろん、私たちは教えをして、勧めをして、時には指導もします。快楽主義、自由主義の教会ではないからです。正しい方向性を示しますが、だけどどうするかは本人の決断にゆだねます。

ちょうどヨシュアが「どれでも選ぶがよい。ただし、私と私の家は主に仕える。」と言われたようなものです。

本人が自分の意志で選ぶことの大切さ
信仰というものは押し付けられるものではなく、自分の意思で選んでいくものです。それは単にキリストを信じるということだけでなく、日々の生活の中でより良いものを選んでいくということです。

ですから、私たちは良い選択をする為の手助けをしたいと考えております。その手助けとは教えることだけでなく、良い環境を作り出すことです。良いコミュニティーの中で貴ばれるときに健全な個人が形成され、それによって、良い判断ができるようになることです。

また、過去の傷や、何らかへの依存からの解放というものも重要な点です。そういったことについても、よりよい環境によって解放されるという側面もあるのです。

キリストの律法
私たちが守るべき律法はモーセの律法ではなくキリストの律法です。キリストの律法とは霊の律法とも呼ばれており、単に規則を守ればよいというものではなく、クリスチャンの内側に住まわれる聖霊の促しによって動いていくものです。
それはどの人に対しても画一的なものではなく、それぞれの成長の段階に応じて、失敗を許容しつつキリストの御姿に近づけるように働いてくださるものです。

 


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